「大逆事件」 田中伸尚

本の話

本書は、「大逆事件」に関係した人々のもとを訪れ、事件後の遺族の様子を伝えながら「大逆事件」を描いている。担当弁護士、「大逆事件」再審請求や被害者の名誉回復、処分撤回についても多くの頁を割いている。雑誌「世界」に連載されていた。管理人が読んだのは現代文庫版で補記が追加されている。被害者や遺族への地域の対応の根深さは初めて知った。人力車夫同盟会結成に尽力した新美卯一郎の遺骨を持った父親が熊本に着いたとき、人力車夫同盟会の人たちが大勢出迎え、人力車で父親を家まで送ったというエピソードが印象に残った。

「大逆事件」は信州・明科で起こった「爆裂弾製造事件」が始まりだった。1909年11月宮下太吉は製造した爆裂弾の試爆を行った。翌年、5月25日宮下の職場の部下だった清水太市郎が「今秋、天皇を爆弾で襲う計画で、新村忠雄と菅野須賀子も一緒だ」と証言したため、宮下は「爆発物取締罰則違反」で逮捕される。続いて長野・屋代町の新村忠雄と兄善兵衛も逮捕される。押収されたメモから花卉栽培「康楽園」の園丁古河力作が逮捕される。爆裂弾に使用したブリキ缶づくりに強力したとして宮下の元同僚新田融も逮捕される。このとき、無関係の幸徳秋水もリストアップされていた。5月31日になると宮下と新村が29日爆裂弾を製造した目的を天皇殺害のためと自供した結果、長野検事正は刑法七三条違反事件として検事総長に送致した。刑法七三条は一審で終結し、刑罰は死刑のみだった。翌6月1日湯河原で幸徳秋水と菅野須賀子が逮捕される。

検事局の捜査は、紀州・熊野、関西から熊本へと伸びた。検事側が描いた「天皇暗殺計画」という架空の「11月謀議」に基づき「決死の士」を集めたという「事実」で26名が起訴された。1911年1月18日に24名が死刑、2名が有期刑の判決が下される。死刑判決の翌19日12名が恩赦によって無期刑に減刑される。1911年1月24日幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童が処刑され」、1月25日に菅野須賀子が処刑された。無期刑に減刑された12名のうち、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5名は獄死した。坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治の5名は仮出獄できた。

「大逆事件」は東アジア反日武装戦線の「レインボー作戦」のような具体的な天皇暗殺計画があったわけではない。政府・検事側が無政府主義の思想に対する予断や偏見で「天皇暗殺計画」を捏造し、それに合わせた自供を取り、具体的な証拠も明示せず立件している。このような予断・偏見に基づく思想弾圧事件は現代でも起こりうる可能性がある。官僚によって文書改竄捏造が普通に行われている国なのだから。

 「今さら、どうして「大逆事件」?みんな知っているでしょう?」
リベラルな市民運動をしている人にそう訊かれたのは「道ゆき」の途中だった。「大逆事件」は国家が個人の思想-自由・平等・博愛-を犯罪として裁き、いわば心の自由殺しの事件だったことは、すでに知られている。私もそれを前提にして旅をし、書いてきた。けれども「大逆事件」は、国家にとって都合の悪い思想を抑圧するために、一つの出来事をきっかけにウソの物語を真のようにし、合法的に市民の肉体まで抹殺した荒々しい事件だったというところまで「知っている」といえるだろうか。国家が時おり見せる「虚偽性」と「暴力性」の果てに「大逆事件」があった-。大石や森近らの獄中書簡などを読むと、彼らは国家のそんな性格を見抜いていたのではないか。そうすると「大逆事件」を過去の思想弾圧事件と捉えるだけでは十分ではないように思われる。

TOP