「マーティン・ルーサー・キング」 黒﨑真

本の話

「自由への大いなる歩み」に続いてキング牧師関連の本を読んだ。本書は、キング牧師の生涯で主にバスボイコット闘争以降について焦点を当てている。39歳で暗殺されたキング牧師の終わりの10年はまさに八面六臂の活躍で駆け抜けた感じである。私生活に関する記述はあまり多くない。

キング牧師の非暴力抵抗主義は、非暴力により相手の暴力を際立てさせメディアや世論に訴え政治家を動かす戦術。公民権法制定には、政治家の協力が必要であった。公民権運動は体制内の黒人の地位向上が目的であり、反政府運動ではなかった。しかしながら、白人による黒人への暴力が激化し、依然として黒人の貧困率は高く、ベトナム戦争が始まり、黒人の若者を中心にした暴動が全米各地で起き、暴力的抵抗を肯定し反戦・反政府を唱える黒人グループが台頭してくる。晩年キング牧師は反戦運動に加わったことにより、従来の公民権運動の仲間から排除され、「ブラック・パワー」を掲げる黒人たちはキング牧師から離れていく。

キング牧師が反戦表明すると、大統領顧問は「共産党シンパ」と呼び、FBI長官は「わが国を蝕もうと企てる破壊活動勢力の手先である」と大統領に告げる。1967年8月、FBIは「黒人民族主義憎悪集団」を対象とする対敵諜報活動を開始する。対象団体(個人)には、SNCC(学生非暴力調整委員会)、「ブラック・パンサー党」、「ネイション・オブ・イスラーム」等が含まれ、キング牧師とSCLC(南部キリスト教指導者会議)もその対象となった。

1968年3月22日メンフィスにおける行進は最悪の結果を招く。16歳の黒人少年が警官によって射殺され、50名が病院に搬送され、125名が逮捕された。この時、SCLCのメンバーはキング牧師を車でホテルまで避難させた。SCLCが非暴力行進を成功させる指導力があることを証明するため、再びキング牧師はメンフィスを訪れる。1968年4月4日メンフィスで、キング牧師はジェームス・アール・レイという白人男性によって射殺される。現在でもキング牧師の暗殺には様々な論説がある。著者は、何がキングを殺したかとして次のように述べている。

 しかし、キングを黒人自由運動と反戦活動のなかで出た多くの犠牲者の一人に位置付ければ、より重要な問いは、「誰が」ではなく、「何が」キングを殺したかであろう。では、その「何が」とは何か。それは、黒人に対する暴力を肯定し、市や州の政府や警察権力までもがこれを容認する南部白人社会の精神的風土である。キング暗殺の報に接し、平均的な南部白人はこう反応したのだ。「キングが死んだことを神に感謝する」「誰かがもっと早く殺すべきだった」「ニガーにすぎない」「この国最大の共産主義者だろ」「自業自得だ」。
 だが、これだけではない。南部白人社会の暴力的精神風土に反対する声をあげない「善意」の人々の沈黙、南部白人の政治票を理由に道徳的考慮より政治的考慮を優先させる連邦政府の消極的姿勢。銃で問題を解決しようとするアメリカ社会全体の暴力的雰囲気。さらには、「平和」を軍事力で勝ち取ろうとする連邦政府の、「目的は手段を正当化する」という姿勢。そして、恐怖や憎悪の連鎖を断ち切り和解を目指す非暴力の生き方に対して、うわべだけの価値しか認めないアメリカの精神風土。これらすべてが、「何がキングを殺したか」の文脈を作り出していたのである。

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