「岡本太郎の見た日本」 赤坂憲雄

本の話

いったんアップした記事を間違って消してしまい再投稿。以前の記事のログもテキストもないし時間も経ってしまったので違った記事内容になってしまうと思うがご容赦を。本書は民俗学者としての岡本太郎に関する評論で、画家というか芸術家の側面は後方に退いている。評論のメインとなるのは岡本太郎の日本紀行三部作『日本再発見』『沖縄文化論』『神秘日本』である。

岡本太郎と言えば、だいぶ前見たTVのCMで「芸術は爆発だ」と叫んでいた変なおじさんのイメージしかなく、著作を読むことがなかった。万博公園にある「太陽の塔」を見たとき、万博の映像と違った印象だった。周りに何も無くポツンと立っている塔はまるで孤立する岡本太郎のようだった。

岡本太郎は1950年代、「縄文の美」を発見する。その後、東北地方を旅して、東北の土着文化に触れる。恐山や出羽三山も訪れ、独自の宗教観に驚く。この旅行中に岡本太郎は多くの写真を撮影して残している。パリ時代に、マン・レイやブラッサイと親好があった太郎は、彼らから写真技術を習っていたようだ。恐山のイタコ、鹿踊り、なまはげ等の独特の写真は、絵画同様に岡本太郎らしさが現れている。パリ大学で民俗学を学んだ岡本太郎だったが、日本の民俗学についの専門的な知識が豊富とは言えず、評価が直感的な場合が多い。それが岡本太郎といえば岡本太郎だった。

次に岡本太郎は沖縄へ向かう。まだ本土復帰していなかった沖縄は、当時の日本人にとってあまりにも遠かった。そのためか、「沖縄文化論」は単行本化する際に『忘れられた日本-沖縄文化論』に変更された。沖縄旅行のなかで、岡本太郎は久高島を訪れる。その時の印象が沖縄旅行の中で一番神秘的なものとなった。岡本太郎は久高島を再訪し、十二年に一度行われる「イザイホーの神事」に触れる。沖縄の祭りはケガレとの接触を忌み嫌うという。岡本太郎は「イザイホーの神事」が行われているときに、地元の新聞記者に誘われて風葬の地に踏み込んでしまう。岡本太郎は穢れを嫌う沖縄の地で最も重いタブーを侵してしまった。だが、岡本太郎は増補版で風葬の箇所を削除することなくそのまま収録している。

身をやつした民俗学者岡本太郎は日本紀行三部作で何を訴えたかったのだろうか。著者は次のように述べている。

 それぞれの土地に埋もれている可能性を掘り起こし、どれほど惨めで未熟であるにせよ、あるがままに凝視し、それを問題として発展させてゆくことだ。そのとき、未熟さは反転して、豊かな可能性の種子となる。太郎の日本紀行はそうして、「世界的であると同時にローカルな新しい伝統」の創出のための、試行錯誤の現場と化していったのである。太郎が探し求めたのが、人間としての誇りや自覚をもって、人びとがたくましく息づき、生活している場所であり、そうした生命感あふれる場所こそ、第一級の芸術があり、いつか芸術のセンターともなりうるという信念が存在した。いずれであれ、すべて日本という、みずからにとっての唯一の現実を拠りどころにしてはじまる。芸術や思想における世界性とは、それぞれの拠って立つ生の現場から繰り広げられてゆく、民族や風土の泥にまみれた闘いのなかに、しだいに獲得されてゆくものではなかったか。太郎はそれを信じようとした。
だから、太郎は断言せねばならなかった。すなわち、現代日本を美として捉える必要はない、手垢のついた日本美などいらない、それよりも、この世紀に「おいて、悲劇的であり、だが誠実である民族の生気に触れて、そんな条件のもとに生き抜こうとする気配から、あたらしい人間の生命力、その可能性を見いだす、そこから、あたらしい文化や芸術の問題がはじまるのだ、と。あるいは、たとえ現実は惨めであっても、それをひっくり返してたくましい世界文化の前衛に転換してゆく、創造のポイントはいたるところにあるはずだ、そこに火をつけたい、生きるアカシのために、と。

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