「この世界の片隅で」 山代巴編

本の話

アニメ映画「この世界の片隅に」がヒットしたおかげで、本書がアンコール復刊したらしいと読み終わってから知った。本書は8人の書き手にによるルポルタージュ。最後は沖縄の被爆者に関するもので、他は原爆投下後20年経った広島で生きる人々の記録。題名は、まえがきによると「それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動」によるもの。福島町は戦前西日本有数の未解放部落だった。

1965年は東京オリンピック開催の翌年で、沖縄はまだ日本に復帰しておらず、原水禁世界大会が分裂した。3月にはアメリカが北ベトナムへの空爆を開始しベトナム戦争が始まる。被爆から20年経った市井の人びとはまだ病気に苦しみ、病気によって働けないため貧しい生活を強いられた。ABCC(原爆傷害調査委員会)に対する被爆者の憎しみは激しく、ABCCの対応もひどいものだった。放射線の人体への影響について、過小評価する傾向があるのは今も同じような感じである。低線量被曝については緒論があり、評価が難しい。被爆の実証例は少なく、日本への原子爆弾の投下が実験的意味合いが強いと言われ所以である。

 会を代表して佐世保へ行きました。原子力潜水艦寄港反対の大集会、いうやつです。港から駅まで四キロの道を、七万人からの人間が行進したんですが、青地に白で折り鶴を浮かした籏を立てて、私らが行くと、道々で『広島がんばれ』いうて声がかかるんです。ええ、遠藤君もおりました。高岡のおばさんもおりました。何万坪という広大な米軍基地が見えてきました。色とりどりの、夢の国のお菓子みたいな宿舎が、ゆうゆうと散らばっとります。まわりには二メートルほどの金網がめぐらしてあって、ほうぼうに立て札があるんですが、これが英語ときとるけ、たいていの人が読めんのです。日本人立入禁止、そう書いてあったんですな。なんじゃ、差別か。なにげなしに思いました。思うたあとでハッとしました。部落差別だけが差別じゃない、これもそのひとつじゃないか。比治山のABCCが広島市民を実験動物扱いにする、これも差別のひとつじゃないか。ドイツに落ちなかった原爆が日本に落ちる、これも差別の一種じゃないか。となると、私らの相手は部落差別だけじゃない。被爆者と非被爆者。原爆を落とす者と落とされる者。働く者と働かせる者。白人と有色人。そういうふうに、人間が人間を差別するあらゆるやり方、あらゆる考え方を相手に、部落解放運動以外の人らと手をつないで、大けな大けな闘いをして行かにゃならんのだ。その上に立ってはじめて部落解放運動の独自性がほんとうの意味できわだってくるんだ。目のさめるような思いで、そうきづいたです。

「闘」という文字がしばしばでてくる本を読むのは久しぶりの感じがした。本書を読んでいて、50年以上経った今となってはよくわからないというかピンと来ないところもあった。しかしながら、何かを記録することの大切さを本書によって強く感じた。

 彼らにとって、生きるとは何よりまず、失われたものを回復することだった。失われたもの、それは鍋であり、茶碗であり・・・いや、それらを一つ一つ数え上げていてはキリがない。すべてのものが、ありとあらゆるものが失われてしまったのである。
見わたすかぎりの焼野原に立った彼らは、茫然とする暇もなく、それら失われたものを回復する仕事にとりっかからなくてはならなかった。あるいは拾い、あるいは乞い、そしてひょっとしたら盗みまでして、彼らはそれらのものを一つ一つ根気づよく集めていった暗いうちに出発し、夜おそく七輪を一つぶらさげて帰ってきた母親のことを私は忘れることができない。
死者は続出していた。いたるところに死を見ながら失われたものを回復するという、苦しく、矛盾にみちた生のかたち、これがほとんど二十年後のこんにちまで、広島や長崎の生き残りたちのとってきた基本的な生の様式だったといえよう。
ところでまた、彼らが失ったのは、単に「もの」だけではなかった。彼らは父を、母を、子を、友人を-すなわち人間を、それら同士のあいだに作り出されていた関係とともに失ってしまったのである。そして、失われた人間はもはやふたたび返ってこない。

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