「北炭夕張炭鉱の悲劇」 増谷栄一

本の話

本書は北炭夕張新炭鉱ガス突出事故後から閉山までの1年9ヶ月間のドキュメンタリー。著者は元北海タイムス記者。管理人が読んだのはプリントオンデマンド版。オンデマンド版なのでプリントが良くなく、写真図版は網が掛かっている感じで見づらい。それでも紙の本として読めるのはありがたい。

管理人は北炭夕張新炭鉱ガス突出事故についての記憶があるけれども、閉山に至るまでの経緯についての記憶があまりない。事故後すぐに北炭夕張炭鉱は閉山したような記憶があった。本書を読むと、閉山後に新会社として再開発しようとしていたことがわかる。炭鉱に大きく依存していた夕張市の財政は急速に悪化していく。そのような状況で夕張市が遊園地、リゾートホテルやスキー場を次々に建設していく。当時、管理人は夕張の遊園地に行くひとがそんなにいるのかなあと暢気に思っていた。管理人が「石炭の歴史村」へ初めて行ったのが2年前。石炭博物館だけ開館していた。売店やレストランは全て閉じていて、駐車場の公衆トイレも使用できない状態だった。

1981年10月16日に事故があり93名が死亡。同年12月15日に会社更生法を適用され北炭夕張炭鉱は事実上の倒産。管財人は従業員の全員解雇とする閉山を提案。1982年10月14日に全員解雇し閉山する。閉山後に新会社として再開発を行うかどうかの折衝が続いた。再開発案として、1)全面再開発 2)試験炭鉱としての存続 3)露頭炭と残炭掘りによる部分開発 4)南夕張炭鉱と真谷地炭鉱との一体再開発 5)北炭グループによる再開発 6)夕張市を主体とする第三セクター方式の6案があった。

この間に通産大臣が、安倍晋太郎、山中 貞則、宇野宗佑と代わり、知事も堂垣内知事から横路知事に交代している。通産省と石炭協会は当初から新会社として再開発する気がなかったようで、大臣の政治的な判断による再開発の望みも大臣交代により絶たれた。どこの炭鉱も負債を抱え、新会社設立に投資する資金も人材もなかった。北炭関連の三井観光も資金調達に難色を示していた。6案のどれも実現不可能ということになり、1983年7月11日、宇野大臣が横路知事へ再開発断念を通告し、廃山が決まる。

夕張市の炭鉱跡地には、選炭所や立坑など関連する施設が殆ど残っていない。「石炭の歴史村」は廃墟となり、スキー場やホテルは中国資本に売却された。石勝線夕張支線は、2019年3月にも廃止される見通しだ。

 国も北海道選出議員以外の石炭議員も同鉱の再開発に関しては、最初のうち一応、全面支援のポーズを取ってみせていたが、最後にはこの問題を単なる地域エゴと片付け、また、脱石炭政策を一気に進める上で格好の機会と見た中央官僚は不採算=不良炭鉱の切り捨てに向かっていったのである。
同鉱の災害をきっかけに、まるで雪崩をうったように他の不採算炭鉱はことごとく国の石炭政策のなかで潰しにかけられていった。安価な海外炭開発と輸入促進、そして原子力の活用に血道をあげる電力業界や鉄鋼業界の声に押されていったのである。その一方で、炭鉱関係者側は、当時、石炭は資源小国日本に唯一残された貴重なエネルギーとして、また埋蔵量も豊富なだけに石炭産業はなんとしても温存して生産技術を残し、将来の開発につないでいかなければならないという論理を展開した。
しかし、現実はもはや衰退産業の石炭には味方しなかった。国や石炭ユーザーの電力や鉄鋼業界といった経済合理性を追求する陣営の方に軍配があがったのである。今のところ、オーストラリアや米国、南アフリカ、中国、旧ソ連などから安い海外炭が順調に入ってきているので問題は起きていないが、輸入依存が極端に高くなると、それだけわが国は大きなリスクを背負うことになるのは事実だろう。わが国には当時、大手だけで十二炭鉱を数えたが、今ではたったの三炭鉱。釧路・太平洋炭鉱、松島炭鉱・池島鉱、そして九州・筑豊炭田で有名な三井・三池炭鉱だけである。

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