「幼年の色、人生の色」 長田弘

本の話

 感情ではないと思う。過ぎてゆく時間は、そのときそのときの感情を消し去るが、そのときそのときの記憶に滲んでいる色合いは、いつまでものこる。そのとき何を考えていたか覚えていなくとも、そのときそのときじぶんをつつんでいた時間の色あいは、後になればなるほど、じぶん自身の人生の色として、記憶のなかにますますあざやかになる。世界が色として現れてのこるのが、わたしたちが人生とよぶものの相ではないだろうか。

 歴史は世を騒がす事件によってのみつくられるにはあらず。むしろ、砂時計の砂のように、じぶんの胸の底に音もなく落ちて、積もってゆくのは、見過ごせば見過ごすままになってしまうだろうような、それぞれがそれぞれの日常のなかで不意に出会う、歴史のなかの無言の小さな光景のほうではないだろうか。

 追い越してゆく音。耳をつんざくような音。叩いて音がするのが文明開化だとした明治の俚言にならっていうと、日々に音をつくりだすのが文明のありようであるならば、文化というのは静けさに聴き入ることだと思う。もっとも単純なことだ。だが、もっとも単純なことが、いまはもっともむずかしい。

 わたしがいつもすすんで旅にもとめたのは、ひとに会いにゆくことではなく、ひたすら風景に会いにゆくという旅でした。風景は向こうから会いにきてくれないからです。
 と言って、いつどこと決めて、まっすぐそこにゆく旅でなく、かと言って、人跡のない秘境にはいってゆく旅でもなく、また逆に、どこかに場所をさだめてずっと滞在し、交わりを楽しむという旅でもありません。
 旅をする。目的が旅をすることであるような旅をする。移動する。目的が移動することであるような旅をする。じぶんで決めていた旅の決まりはそれくらいで、ただ最初に、降りる空港を決める。空港からはレンタカーで、宿や食事はそれから次第。

 大事なのは、歌ではない。歌がつくりだすものだ。歌は詩と音楽でできているけれども、結局、詩でも音楽でもないもの。言葉と楽譜でできているのではなくて、歌うこと、聴くことでできている。歌う、聴くというふたつの行為が落ち合う場が歌なので、それが歌のもついま、ここでいう本質的な感覚をつくっている。ディランの歌になによりも新鮮に感じられたのは、そうしたいま、ここという場を歌によってつくりだそうとする衝動というか、意欲だったことをいまさらのように思いだします。歌のくれるのは、歌と共に在るという感覚です。そのときのわたしの考えの中心にあったのは、共に在るという感覚をもつことができなければ、歌なんてあるだろうかということでした。

 どうしてか、わからない。猫たちがいなくなってあらためて思い知ったのは、猫たちが日常というものをどれだけ生き生きとかんじさせる存在だったか、ということだ。日常をよく生きることにかけて、ひとは猫に、到底およばない。「そこにいる」あるいは「ここにいる」ことを、猫のようにさりげなく上手に楽しむ才能は、ひとにはないと思う。

 詩を書くことは、それが誰だろうと、あなたとしか言うことのできない、人生の特別な一人に宛てて、わたしのことばを差しだすことである。

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