「きょうもまた好奇心散歩」 池内紀

本の話

本書は月刊誌「望星」に連載されたものを編集し直したエッセイ集。本の帯には池内式散歩術による好奇心散歩エッセイとある。

紹介されている場所は東京と関東近郊の街。本書は地図でこことここに寄ってというようコース案内ではない。著者の好奇心の赴くままにメインストリートからちょっと外れた道を歩く。「雨の相模湖」では、雨が降る平日に相模湖へでかけるのは「足の名人」ならでは。著者は1940年生まれながら健脚。管理人も見習うことも多い。

東京周辺では古い建物を取り壊し、新しい建物に建て替えていく。鴎外・漱石の時代から「東京はいつも普請中」。管理人が久しぶりに武蔵小杉へ行ったとき、駅周辺がすっかり変わってしまい出口間違ってしまった。20数年通勤で利用した駅なのに、ここ数年の変わりようは目を見張るものがある。川崎市中原区に住んでいるとき川向こうか、横浜に住みたいねえと会社のひとたちと話をしていたのが、武蔵小杉が住みたい街の上位にランクされるとは何が起きるか予想できない。「お買い物は八王子」で紹介されているお店は時代に逆行するようなたたずまい。古い建物はなるべく大切したいと管理人も思った。

 一つの建物は本来、長い時間をかけて生きるものなのだ。その過程で都市なり町なりのなかの生きた組織体となり、暮らしに欠かせないランドマークに育っていく。通りがかり、それを見るだけで心がなごむ土地の目じるしである。ひたすら経済効率だけでブッ壊す容器ではないのだ。
日本人はしっかりした家を失うとともに、古いものを大切に使うという伝統も失ってしまったのではあるまいか。長く使おうと思わなければ、刹那的にならざるをえないのだ。おのずと暮らしや世相そのものが、家のスタイルに準じてくる。忙しなく送り迎えして、それでおしまい。ドイツには「古い家のない町は想い出のない人間と同じ」ということわざがあるが、どんなにキラびやかに飾っていても、想い出のない人間ほど、つまらない人種はいないのである。

最後に「贋学生行状記」からの引用。

 人恋しいくせに、幼いころからひとりぼっちが好きだった。旅はひとりがいい。山へ行くのもひとり。親しい仲間はいるが、いっしょにいると、二日目にはうかぬ顔になる。
欲しいもの?べつにない。何を買いたいか?とりたてて買いたいものもない。服?安売り店のジャケットと使い古しのジーンズで十分。読みたい本?いまもっているだけで一生分ある。何がしたいかって?別に何も・・・。わが人生の師の辻まことが述べている。「欲望から離れてフト自由になったとき、人はこの人生に対して、純粋な客観的認識をもつことができる。それは存在の距離の意識である」。急に「存在の距離」が出てきてとまどうが、ありようは、自分でもどうしようもないメランコリーといったものではなかろうか。

新着記事

TOP