「言葉が鍛えられる場所」 平川克美

本の話

平川克美さんの単独の著作を読むのは本書が初めて。本書は大和書房のウェブに連載された文章を加筆修正してまとめた現代詩に関連するエッセイ集。

「言葉が鍛えられる場所」とは、言葉が通じない場所、言葉が無力となる場所で、そういうときに人は言葉を意識し、何とか工夫して言葉を伝えようとする。そのような試行錯誤によって、言葉本来の意味を人は獲得するあるいは理解する。

言葉を大切にする詩人は、言葉を信じられないものであり、そのため言葉の行方を探し求めるものである。詩人は言葉に対する屈託を持つが、わが国の総理大臣はそのような屈託を持たないと著者は述べている。

 自分とは異なる他者に対して、言葉で何かを伝えようとする場合、誰でも普通は、情理を尽くして自分の考え方を理解してもらおうと試みることになるでしょう。
しかし、かれの場合には、自分の同調者に受ける言葉を発することはあっても、自分に批判的なものに対しては、いかなる関心もないように見えます。
かれの言葉の先にいるのは、同調者か、敵対者だけであり、敵対者に対しては、ただ有利なポジションをとるだけのために、言葉は発しています。かれにとって言葉は、それが、真実であるか、嘘偽であるかは関係なく、ただ、相手を打ち負かすか、煙に巻くか、政治的優位に立てるかだけのための、ツールでしかありません。
つまり、党派的な言葉でしかないということです。この場合、言葉は、相手を打擲したり脅したりする棒切れのようなものであり、相手を打ち負かす以外のどんな価値もないのです。
だから、自分の嘘に対しても、どんな意味でも罪悪感や背徳感を持つ必要もないし、そのような感受性も不要なのかもしれません。
もし、それが政治家の資質であるとするのなら(そんなことはないと信じたいところですが)、政治家の言葉は常に嘘であると思わなければなりません。
これほど言葉をぞんざいに扱う者に、どうして信を置くことができるでしょうか。

言葉を大切にするものは沈黙し、言葉をぞんざいに扱う者はますます饒舌になる。詩人の居場所はなくなっていく。

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