「ゴッホ自画像紀行」 木下長宏

本の話

本書は、ゴッホの自画像に焦点をあてたゴッホ論。カラー版なので図版が見やすくなっている。文庫本の「ゴヤ」は図版がすべて白黒でちょっと残念だった。題名が紀行となっているが、ゴッホの自画像ゆかりの地を訪れるという意味ではなく、作品の内面への旅という意味をこめていると著者はあとがきに書いている。

著者はゴッホの人生を3つの時期に分けている。3つの時期とは「自画像以前の時代」・「自画像の時代」・「自画像以降の時代」である。ゴッホは37歳で自殺をし、画家として絵を描いたのは10年ほどだった。ゴッホは画商として働き、その後牧師を目指したがかなわず、その後は定職につかず画家を志す。生涯に42点の自画像を描いている。ゴッホはパリに行ってから自画像を描くようになる。パリ時代の自画像の変遷は、ゴッホの画家としての成熟になっている。自画像を見る者と見つめ合わない自画像を描くまでになる。

 これは、自画像という作品を「絵画」として扱おうという意識がつよく働くようになったということである。画面のなかの自画像の視線が、画面の外の絵を観る者を見返さない場合、しかしその視線が画面のなかのどこかを見ているように描かれているのは、絵画の枠の働きということを考えているからである。ヴィンセントにとって、自画像は、自己の赤裸々な描写でもなく、自己告白でもなく、自己の観察の冷静な報告でもなく、絵画という枠のなかで、自分という存在をどう描き出すか、というところに最大の関心があった。

ゴーギャンがアルルに来て、ゴッホと共同生活を始める。しかし、この生活は2ヶ月で破綻する。ゴーギャンが出て行ったその夜、ゴッホは自分の耳朶を切り取り娼婦のところに持って行く事件を起こす。ゴヤは病院に収容されるが、意識を失って倒れてしまう発作をおこすようになる。アルルで入退院を繰り返していたときに描かれた自画像が2枚ある。毛皮のついた帽子をかぶり耳に包帯し、一枚は背景に浮世絵があり、もう一枚はパイプを銜えているものである。アルルからサン・レミの施療院へやってきたゴヤは発作がないときには屋外にでて絵を描くことを許された。サン・レミへきてゴヤは自画像を描くことやめていた。

 サン・レミに来て、自画像は描かなくなった。絵を描くことによってしか、自分の病気と対決することはできない、この病気に打ち克つことはできない。そう考えたとき、彼は、「自分」の鏡像を描く欲望も封印してしまった。「自分」自身よりも、「自分」をこういう病気へ追いやった、「自分」と「世界」の関係-「自分」を取り巻いている「世界」を見直さなければ、と考えたのである。「星月夜」は、そのときの彼自身が探し求めていたことへの答えの一例といえよう。

「星月夜」を描いて三ヶ月後、ゴッホとして一番有名な自画像を描く。その後、ゴッホは自画像を描くことはなかった。サン・レミで「自画像の時代」が終わった。ゴヤはサン・レミからオーヴェルにやってくる。ゴッホはオーヴェルで71点の油彩画を描く。ほかに同じ分量のスケッチやドローイングがある。ゴッホはオーヴェル村のあちこちを歩き、気に入った場所があるとイーゼルを立て描いた。ゴッホはオーヴェルへ来て、妹への手紙に「100年後の人々の前へ亡霊のように現れる肖像画」を描きたいと書いている。しかしながら、ゴヤはオーヴェルで肖像画をあまり描かなかった。著者はオーヴェルの風景を描いたゴッホの絵は「風景の肖像画」であり、それは「烏の群れ飛ぶ麦畑」を見れば一目瞭然であると述べている。

 「烏の群れ飛ぶ麦畑」は二〇世紀の自己分裂し、自己崩壊する人間の絶望と共鳴しているが、ヴィンセントは決して絶望のあまりすべてを放棄したわけではない。音もなく飛び交う烏の群は、100年後の亡霊を呼ぶ使者である。亡霊は、麦畑をうねりながら突き抜けるこの「一本道」の彼方から現れなければならない。だが、麦畑の向こうに続いているのは、また麦畑なのではないだろうか。この絵を描きながら、ヴィンセントはそれに気がついていたにちがいない。一本の道の彼方に隠れているのは、幽玄な精霊でもなく、神秘的な魂でもない。人びとが汗し涙し笑い、喜びと悲しみを分かち合う日々のなか、黙ってひっそりと風に戦ぐ麦畑。その広大な麦畑を作る最も小さな単位としての麦の穂こそ、「亡霊」に勝る亡霊なのだ。ここにこそ「無限」がある。亡霊は、あるとき突然出現するのではない。いつも人びとのすぐ近くに、そっと存在して、実りのときを待っているのだ。

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