「自画像の告白」 森村泰昌

本の話

本書は「森村泰昌:自画像の美術史-「私」と「わたし」が出会うとき」展で発表された映画のスクリプトと写真とで構成されている。あとがきによると映画では台詞を大幅にカットした場面があるそうで、本書の文章がノーカット版。管理人はこの個展を観覧していないのでどのくらいカットされているのかはわからない。

本書では13人の自画像を描く画家13人を取り上げ、著者がそれらの画家や絵画に描かれている人物全てに扮装している。管理人が最初に観た森村さんがゴッホに扮装した写真に比べると格段に手が込んでいるというかすごい作品なっている。制作費はどのくらいなんだろうと下衆の勘繰りをしてしまう。管理人は森村作品が好きなのだが、「何じゃこりゃ」と思うひとも多いと思う。それも著者の狙いなのかもしれない。

芸術家には
殺人鬼の血がながれている。

社会に役立つ芸術?
芸術による人間の救済?

笑わすんじゃないよ。
あんたら、本気で絵を描こうとしているのかい。

世界の消失は、俺が生きる場所の消失を意味している。
そして世界を認識しようとする俺が消え去るということは
世界を認識する主体の不在を意味するのだから
それは世界が消え去ることなのだと言っても
さしつかえないだろう。

世界が破壊されることと俺が破壊されることは同じことだ。

俺は次第に絵画を描く俺自身と
俺が殺害を企てている相手としての絵画との差異を見失い
俺は画家なのか、絵画それ自体なのか、

今となっては見極めがたい問いを抱えて
明けることのない永遠の夜の中を
彷徨い続けることになった。

俺が俺を描く。それは結局のところ
俺が俺自身に絵筆というナイフを突き刺すってことだ。

絵を描く行為の恐ろしさを知るのは
絵画殺しの罪を負った画家だけの特権である。
(第2章カラヴァッジョ)

人間は、
「なぜ?」
という言葉を発する生き物であります。

なぜ人生は、
かくも苦しみ悲しみに

満ちていなければならないのか。
なぜ人間は、果てしなく欲深いのか。

なぜ、争いは起きるのか。
なぜ、私は生きているのか。
なぜ、私に死はやってくるのか。

なぜ、なぜ、なぜ。

不完全なまま終わらざるをえないこと。
これは人間の定めです。
それでも完全なるものへの衝動にかられるのは
なぜなのでしょう。

なぜ、なぜ、なぜ、と繰り返し

しかし、いつまでたっても答えは見つからず
私の心はますます沈み込んでいく。
(第6章アルブレヒト・デューラー)

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