「ゴヤⅡ マドリード・砂漠と緑」 堀田善衛

本の話

本書は全4巻の2巻目。この調子でいくと、全巻を読み終わるのはいつになることやら。何とか挫折しないよう読み続けているが、スペインの歴史的部分や王侯社会に関する記述は管理人には興味のないことが多く苦戦している原因のひとつ。

40歳を過ぎたゴヤは画家として注文が増え、王侯貴族から肖像画の依頼が絶えることがなかった。ゴヤはタピスリーの仕事をやめ、念願だった宮廷画家となる。全てがうまくいっていたとき、突然ゴヤは病に倒れる。1792年秋、王の許可をえずアンダルシーアの港町カディスへ向かう。カディスで肖像画を書き終え、帰途セビーリャの友人ベルムーデス邸に滞在しているとき最初の打撃を受ける。めまいを伴った麻痺で、ベルムーデスに付き添われカディスに引き返す。ゴヤの病が何であったか。いろいろな説があるなか、梅毒あるいはその治療のために使った水銀が内耳神経を麻痺させたという説が真実に近いらしい。この病のためゴヤはまったく耳が聞こえなくなってしまった。また、腕に麻痺が残り、この先絵を描くことがどうかわからなかった。

 病苦と聾であることによって孤独のなかに閉じ込められたとき、それまでの彼のまわりに立てまわされていた壁が、いや、より正確には彼自らが立てまわした壁が、音もなく、崩れ去って行ったのである。
 それはおそらくゴヤにとって、全世界を喪失したかのような感を与えるものであったろう。まさに悪夢である。
 宮廷画家の世界-それこそは彼が少年時代からひたすらに首をながくして希求し翹望して来た、唯一の全世界であった。
 彼はこの”全世界”を喪って、はじめて”現実”を得たのであった。
 あるいは、病苦と聾のために孤独に突き落とされて、この”全世界”にプラスして、かてて加えて”現実”を得たと言ってもよいであろう。
 いわば、それまでのゴヤは、ある一つの、人間が生きて行くについてもっとも痛切なものを欠いた、人工的世界の画家であった。自分自身で仕立て上げた、出世という人工世界に身をおいていた。そうしてそうあることが出世であり、幸福というものであるとしていた。彼がくりかえし友人サパテールにあてて書いていた手紙の内容を思い出して頂きたい。
 つくづく、不思議な人である。御時勢順応主義でアカデミイに入り、アカデミイ会員になってから、当時は高貴な芸術とは認められていなかった、ということはアカデミイ会員などにはまったくふさわしくからぬ肖像画や風俗画をばりばり描きはじめ、宮廷画家になってから、宮廷画家などにふさわしからぬ現実を描きはじめ、あまつさえ、”漫画”風な怪奇画集を刻印して売りにまで出す。

幸いなことに腕の麻痺は回復し、ゴヤは画家として復活する。この後、「アルパ公爵婦人像」、「カルロス四世家族図」、「チンチョン伯爵婦人像」、「サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂壁画」などの代表作を描く一方、「マドリード画帳」や版画集「気まぐれ」なども出版する。ゴヤとアルパ公爵婦人との関係などはいろいろあったようだ。ゴヤはとうとう首席宮廷画家にまで上りつめる。19世紀初頭ナポレオンが率いる仏軍がスペインに侵入し、スペインは混乱する。新しい時代の到来である。

 新しい一時代とは、すなわち現代そのものに他ならない。
 王侯貴族であろうが平民であろうが、彼が見、そしてかれが感得したところのものを彼自身の方法で表現する。従ってそこには種々様々な規範や図像学上の伝統的規制、ドグマなどは、芸術家自体によって乗り越えられてしまい、そこで、従ってという言い方をもう一度使わせて頂くとして、従って芸術家自体の独自性と独創性がはじめて問題になって来るのである。いわば芸術家はパレットを手にカンバスを前にして、たった一人で、規範、規制、ドグマが乗り越えられたという意味では自由という名の虚無へ、また独自性と独創性という相対的なものに依拠するという意味では、人間とその社会の現実へ進み出て行かなければならなくなる。

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