「新編 太陽の鉛筆」 東松照明

本の話

札幌宮の森美術館で展示中の「東松照明 太陽の鉛筆」を観た後、美術館で「新編 太陽の鉛筆」を購入した。「新編 太陽の鉛筆」は『太陽の鉛筆 1975』と『太陽の鉛筆 2015』の二冊組になっている。管理人がほしかったのは『太陽の鉛筆 1975』だけだったけれども、分売不可となっているので仕方ない。美術館のかたと話をしたら東松照明さんは札幌では知名度が低いということだった。『太陽の鉛筆 2015』のほうに伊藤俊治さんと今福龍太さんの「太陽の鉛筆」論が掲載されている。5月28日から広島で「東松照明 長崎展」が始まる。

「東松照明 太陽の鉛筆」展は川崎に住んでいた頃何度か観たことがあった。東松さんは東京から沖縄本島に移住し、さらに宮古島に移り住んだ。当初、占領(米軍基地)と沖縄というテーマの撮影だったのが、沖縄そのものに撮影テーマが変わり、さらに東南アジアへ向かう。写真はモノクロームからカラーへ変わっていく。東松さんの南方への指向は晩年まで続いたそうだ。

『太陽の鉛筆 1975』から気になった箇所を引用する。

カメラは絶縁体だ。対象との間に置くとコミュニケーションが途絶える。
カメラは誘導体だ。カメラを媒介にして対象とコミュニケーションが成立する。
いずれも、あり得ること。

 1969年初頭、はじめて沖縄に来たとき、ぼくは当然ながら米軍基地とその周辺の町に関心を持っていた。が、正直いってぼくは、基地にあって、憎悪と畏敬とある種の懐かしさとが入りまじった複雑な思いにとらわれた。
 ある種の懐かしさ、などというと奇妙に聞こえるかもしれない。が、実際に写真家は、被写体に対するフェティシズムから自由でない。対象と向き合って反感を持つことはある。そのときは、たいがいシャッターを切らないのであって、写すという行為は、建前は何であれ、意識するとしないにかかわらず、肯定的に対象を受け入れることを意味している。
 愛憎紙ひと重という。まさに「占領」は、ぼくにとって矛盾の統一体としてある。

 沖縄では、村のことをもシマという。シマは、閉じた一つの世界であって、シマごとに言葉が違い生活のリズムが違っている。それぞれ独自の文化をもち、他人志向型の精神に支えられた運命共同体。「土着の思想」と呼ばれている精神文化の裸の姿がそこにはある。
 しかしながら、固有の文化が、モノとしてかたちをなさぬとき、写真家はお手上げだ。目に見えないモノは写らない。シマにあって、ぼくは、写真がまったく無力であることを思い知った。そして、改めて、写真とは何か、という誰しも疑問を持つけど結局わからずじまいの果てしない問いにめぐり合い、試行錯誤のすえ、自分の中の双頭の蛇を殺して、矛盾を止揚したつもりで、これからは好きなものしか撮らぬと言い切る。

 写真が、写真館で撮る写真以外にほとんど意識されないシマにあって、ぼくはますます写真に執着するようになった。ここでいう写真とは、撮られたいと思う人が代金を払って撮られる写真ではなく、撮りたいと思う写真家が、場合によっては代金を払ってでも撮る写真のことだ。
 ぼくはもう20年以上写真を撮りつづけている。林子平の『六無斎』ではないが、親もなし、妻もなし子なし家もなし、金もなければ死にたくもないぼくに、唯一写真だけ、長年連れ添った古女房のごとく貼り付いている。
 シマという写真の真空地帯にいて、いや真空地帯にいるからこそ、いっそう強く写真との一体感をもつのだろうか。やめられない!としみじみ思う。

 写真家は通過者であったり滞留者であったりする。が、それも、見る状態が変化するだけで、見つづけることに変わりはない。写真家は、医師のごとく治療するでなく、弁護士のごとく弁護するでなく、学者のごとく分析もせず、神父のごとく支えるでなく、落語家のごとく笑わせもせず、歌手のごとく酔わせもせず、ただ見るだけだ。それでよい。いや、それしかない。写真家は見ることがすべてだ。だから写真家は徹頭徹尾見つづけねばならぬのだ。対象を真正面から見据え、全身を目にして世界と向き合う、見ることに賭ける人間、それが写真家なのだ。

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