「万物は流転する」 ワシーリー・グロスマン

本の話

 人間の歴史は人間の自由の歴史である。人間の潜在能力の伸張は、なによりも、自由の伸張に表れる。自由は、エンゲルスが考えたような自覚された必然性などではない。自由は必然性のまさに対極にある。自由とは乗り越えられた必然性なのである。進歩とは基本的に人間の自由の進歩である。とにかく、「生命それ自体が自由」なのであり、「生命の進化は自由の進化」なのである。

本書は著者の遺作となった小説。本書は「人生と運命」より先に出版されて、既訳もある。オリジナル原稿は1961年の当局による家宅捜査の没収され、その後、グロスマンは記憶に基づいて書き直しをしたそうだ。この小説の物語的部分は少ない。スターリンの死後、29年振りにラーゲリから出てきたイワン・グリゴーリエヴィチは地方の街で職を得る。イワンは未亡人のアンナ・セルゲーエヴナの部屋を借りる。二人は愛し合うようになるが、アンナは末期の肺がんでやがて亡くなる。イワンが故郷の海辺の街を訪れるところで小説は終わる。

この小説では、スターリン体制末期のユダヤ人弾圧、富農撲滅運動と農業集団化による1932年から33年に起きた数百万人の農民が死んだウクライナ大飢饉、粛清時代のラーゲリが語られている。スターリン体制時に起きたこれらの悲惨な出来事は、理解しがたく救いようがない思いがする。誰かを密告した人間が別の人間に密告されラーゲリへ送られる。反党分子の夫を密告しなかったために妻がシベリアに送られる。ウクライナの農民がミミズや木の根も食べ尽くし、何も食べるものがなくなっても国家=党は何も援助をしない。穀物倉庫に国家が収穫した穀物があっても。

著者はこのようなスターリン体制の国家を基礎づけたのはレーニンだとみなす。本書の後半は小説というよりも著者によるロシア論といった感じだ。このロシア革命=ソビエト国家の影響は20世紀の世界に伝播したが悉く失敗したように見える。ソ連による社会主義国家建設の壮大な実験は終焉し、資本がツァーリとして復活した。社会主義国家の中国はひたすら経済成長を追い続け富裕層を増大させ、朝鮮半島の社会主義国家の第一書記はディズニーランドやNBAが大好きらしい。レーニンが目指した国家とは何だったのか。

 レーニンは多くの点でロシアの予言者たちとは対極にある。温順さやビザンチン的・キリスト教徒的清らかさや福音書の掟といった彼らの理念からは、彼は限りなく遠いところにいる。しかし驚くべきことに、そして奇妙なことに、レーニンは同時に彼らとともにあるのである。彼はまったく別の道、自らの道、レーニンの道を歩みながら、非-自由という千年にわたる底なしの泥沼からロシアを救う努力をしなかった。彼はロシアの予言者たちと同じく、ロシアの奴隷制の揺るぎなさを認めた。予言者たちがそうであるように、レーニンを生んだのはわが国の非-自由なのである。
ロシア人の心の内にある農奴の心は、ロシア人の信仰にも、ロシア人の不信心にも、ロシア人の温順な人類愛にも、ロシア人の放埒さ、暴力、豪胆さにも、ロシア人の極端な吝嗇と小市民性にも、、ロシア人の黙々とした勤勉さにも、ロシア人の禁欲主義的清らかさにも、ロシア人の気質に人間への尊厳意識が欠如していることにも、ロシア人の暴動参加者たちの自暴自棄的な激しさにも、セクトに属する人間の熱狂ぶりにも、生きている。農奴の心は、レーニンの革命にも、レーニンがヨーロッパの革命教義を熱心に受容したことにも、レーニンのなにかに取りつかれたような情熱にも、レーニンの暴力にも、レーニン国家の勝利に、ある。奴隷制度のある世界では、どこでも同じような心が生まれる。

イワン・グリゴーリエヴィチの故郷は、今年冬期五輪が行われるリゾート地のソチ。そういえば「飛んだ決まった笠谷のジャンプ」というアナウンサーが叫んだ札幌五輪とあさま山荘に立てこもった連合赤軍の事件があったのは同じ年の同じ月の出来事だった。

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