「チェルノブイリと福島」 広河隆一

本の話

本書をアマゾンで購入しようと思ったところ、取り扱っておらずジュンク堂オンラインで入手した。今はアマゾンでも取り扱っているようだ。管理人は報道写真が苦手であまり見ない。東日本大震災関連の写真集や雑誌も見ないというか買わなかった。個人的に被災地へ行って写真を撮るということもしなかったし、これからもしないと思う。広河隆一さんの著作は読んできたが写真集を買うのは今回初めてだった。今年はチェルノブイリの事故から30年、福島第一原発事故から5年ということで写真集(写真記録)を買うことにした。

チェルノブイリ原発4号炉を覆っている石棺の耐用年数が30年といわれており、代わりの遮蔽ドームが建設されている。遮蔽ドームは今年中に完成し、来年には原発4号炉を覆う。このドームの耐用年数は100年ということだ。4号炉内の高濃度放射性物質を取り除く計画はまだ見通しが立っていない。

チェルノブイリの写真はモノクロームが多い。モノクロームのほうがリアルな感じがする。管理人が一番印象に残った写真は156-7頁の甲状腺ガンで亡くなった少女が棺に横たわる写真。自分には撮れないなと思った。

写真集の最後の章「チェルノブイリから福島を考える」から長いが引用する。

 シャッターを切れなかった子どもたちを忘れられない。その子が号泣したときには、カメラを置いた。私にはその子の絶望を記録する力がなかった。さらに目の前で崩れ落ちて倒れた子がいた。余命数年と聞いていた私は、撮影を中止した。
 救援活動をしていると、多くの親が自分の子を助けてほしいと訴えてくる。信じてくれたのに、応えられず、死に至った多くの子どもたちのことを、忘れられない。私も無力感から立ち直るのに長い時間を要した。
 カメラに力がないわけではない。ただ、それだけではだめだと知った。
 チェルノブイリ事故の取材を開始したとき、放射能がこれほど手に負えないものだとは思っていなかった。人間の英知がすべての悲劇を克服すると信じていた。
 しかし、それは今では、愚かな考えだったとことを思い知らされている。原子力を利権で守ろうとした専門家と政治家たちに、私たちの子どもたちの生殺与奪の権利を譲り渡しまった罪の大きさに、唖然とする。
 チェルノブイリ事故から3年目に私は現地入りし、多くのことが隠されているのを見た。病気があらゆる場所で牙をむいていた。このとき、すでにベラルーシやウクライナでは、小児甲状腺がんはじめ、あらゆる病気の多発を訴え、助けを求めていた医師や市民がいた。しかし、日本の重松逸造氏をはじめ、IAEAやICRPなどの国際的な「知見」をふりかざす専門家たちがそれを踏みつぶした。そして翌4年目には、小児甲状腺がんが急増するのだった。それをも「知見」は無視した。人々の不安や叫びを、「非科学的」と一蹴した。このころ私たちは救援運動を開始したが、あまりにも非力だった。
 やがて、チェルノブイリと同じように、日本でも甲状腺がんの多発や、それが事故との因果関係があることを隠せなくなる瞬間が来るだろう。そして彼らが嘘に嘘を上塗りしていたことが、明らかになる。
 そして、誰にも否定できない事実を目の当たりにした時、彼らの主張を垂れ流していたメディア関係者は、呆然と立ち尽くし、言葉を失うだろう。あとに残るのは何か。彼らを信じてしまった自分自身を責める、親たちの悲痛な叫び声なのか。
 しかし、絶望するには早い。まだ時間があるからだ。異なった「未来」を迎える可能性がまだ残っている。異なる選択をおこなうには、あまりに時間が足りないと言うか、まだ時間が残っていると言うかは、今からの私たち次第だ。
 ただし、もう言い訳は許されない。迷い自体も罪になる。原発を再稼働させるために、福島事故をなかったかのごとくして、子どもたちを汚染地に帰還させ、海外に原発を輸出するという今のやり方に別れを告げ、大きく舵を切らなければならない。人間を守るために。
 取材の中で出会ったある少女は、余命が数年と宣告されたが、やがて将来の夢を持ったことで元気になった。生きる希望の力が、体を回復させた。私たちの体は不思議な力を蓄えている。その力を生かすには夢が必要だ。悪夢ではなく。生気に満ちた夢が。

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