「後鳥羽院 第二版」 丸谷才一

本の話

堀田善衛さんの作品を読むのを小休止。「定家明月記私抄」の参考文献に本書があり読んでみた。書店の国文学コーナーへ行き本書を探してみたがなかったので、現代文学の著者別コーナーのところをみたらあった。内容は中世日本文学だから、古典というか国文学のところにあるのかと思ったのが管理人の勘違いだった。久しぶりに眺めた国文学コーナーの様変わりに驚いた。最近の大学では、文学部国文科というか日本文学科というのは人気がないようだ。

本書の初版は1973年で、「しぐれの雲」・「隠岐を夢見る」・「王朝和歌とモダニズム」の3篇を加えた第二版は2004年に出版されている。30年以上たって第二版がでるのは珍しい感じがする。「歌人として後鳥羽院」は本書のメインであり、後鳥羽院の和歌あり、著者の解説が続く。和歌はほとんど読まない管理人にとって、和歌の評価について判断しようがない。定家との対比と折口信夫の論考が面白かった。折口信夫が「悲劇の王」になりたかったというのは何となく頷ける。

管理人にとって「王朝和歌とモダニズム」が一番面白かった。「王朝和歌とモダニズム」はケルン、ベルリン、ローマに行われた講演に基づいているのでわかりやすかった。ボードレールの言った「モデルニテ」は、あらゆる時代が現代であるという意味での「モデルン」という時代論的範疇をさすものではなく、同時代の風俗と精神を重んじ新しい技法を好む様式論てきなものととるほうがよいと著者はのべている。モダニストとしての後鳥羽院は、口語性や今様などの口調という「モデルニテ」を和歌に取り入れ注目した。

 一体にモダニズムについて考えるときには、時間といふもの、歴史というふものが重要な装置となります。今がすぐ今でなくなるやうに、現代はやがて現代でなくなる。しかしさういふ、時間につきもののうつろひやすさ、はかなさのなかに、特異な美の形、詩情がある。花やかさ、華奢で贅沢な趣がある。これは日本的な美の感じ方の特徴でもあるのですが、さう言へば平安朝の日本語には「今めかし」といふ言葉があって、これは、(1)現代的である、(2)花やかである、の両義を持ってゐました。そこで「モデルニテ」はいっそ「今めかしさ」と訳せば一番いいかもしれません。これなら軽蔑的な意味合ひになりませんもの。「モデルニテ」を「当世風」とか「今風」とか訳すとのでは、どうもマイナスの方向に取られがちな危険があります。そして後鳥羽院の主宰する宮廷歌人たちの方法は、現代的である花やかさを求めるものであった。彼らは、ちょうど「絵入りロンドン・ニューズ」の挿絵のやうに明日はもう失せるかもしれない街の小唄の口ぶりを真似ることで、その今めかしさを和歌のなかに収めようとした。そのとき彼らが末法思想のせいでかねがね抱懐し、そして日本の過半を領地としてゐた平家一族の滅亡を目のあたりに見た彼らの体験のせいでいよいよ強められた無常観は、この詩学の裏づけとして作用したのでした。
 一方、今を気にかけることは昔を意識させるし、現代を楽しむことは古代を思ひ出させる。そこで新しさと伝統とがかへつて結びつく。歴史は平凡に退屈に流れてゆくものではなくなつて、現在と過去との関係に緊張関係が起り、冒険の意欲が生じる。「歴史というのは、ぼくがなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢なんです」と『ユリシーズ』のなかでスティーヴン・ティーダラスは言ふ。古典主義が前衛を生む。

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