「風景の死滅」 松田政男

本の話

書店の棚にあった本書をちょっと立ち読みしたところ、中平卓馬さんのことが書かれていたので購入。本書は増補新版で、元々は40年近く前に出版されたもの。そう言えば中平卓馬さんの評論で言及されていたような気がした。帯には、「永山則夫、フランツ・ファノン、チェ・ゲバラ、国際義勇軍、赤軍派、『東京戦争戦後秘話』、若松孝二、大杉栄・・・何処にでもある場所としての<風景>、あらゆる細部に偏在する権力装置としての<風景>にいかに抗い、それを超えうるか」とあり、何かタイムスリップした感じがする。本書に収められている文章は、当時の雑誌や新聞等に発表されたもの。著者の意図で初出の誌名は書かれていない。

本書を読むと1970年代初めに「風景論」論争があったようだ。管理人は全く知らない論争で今回初めて知った。永山則夫のドキュメンタリー映画「略称・連続射殺魔者」は、永山則夫が流浪した足跡を追体験し、その場所の風景のみを撮影した。永山則夫は、1968年から1969年にかけて、東京・京都・函館・名古屋で4人を射殺し、1969年4月に逮捕され死刑判決を受け、1997年に刑死。当時永山則夫は19歳だったが実名報道されている。著者の風景論はこの映画から始まっている。ドキュメンタリー映画撮影の旅は、網走、板柳、弘前、青森、函館、山形、福島、東京・渋谷、横浜、名古屋、小山、宇都宮、大阪、守口、東京・羽田、川崎、横須賀、東中野、池袋、巣鴨、小田原・・・・と続いた。こうした旅をしても、著者たちは永山則夫を育んだ<故郷>をついに発見できず、見たのは小さな<東京>だった。失われた<故郷>を求める旅は、何処まで行ってもすべての地方もしくは辺境の街並みは、均質化された風景としか映し出されなかった。

 私たちは、したがって、永山則夫のドキュメンタリーを撮影するにあたって、何よりもまず、風景としての日本列島をいかにとらえうるかという視点を繰り返し深化させる以外にいかなる方法をももちえなかったのである。私たちの固有の時間を経めぐった私たちに固有の空間は、それがたとえ同じ場所、同じ旅程であったとしても、永山則夫の軌跡とは、当然のことながら、異なってしまっているはずだ。両者の時空からひとつの函数を抽出するとするならば、それが、まさしく風景となる。さよう、それは、絵に書いたような、銭湯の巨大な壁画のような、何のケレン味もない風景そのものだ。私たちは、ベンヤミンが、二十世紀初頭の無名の写真家アジェが「パリのひとかげのない街路の風景」を撮りつづけていたことを評価して、いかにもベンヤミンふうな警句として述べた次のような一節と、或いは、逆のサイクルをたどっていたのかもしれない。
「かれは風景をちょうど犯行現場のように撮した、といわれているが、たしかにそのとおりである。犯行現場にはひとかげはない。その撮影は間接証拠をつくるためなのだ。写真はアジェによって歴史のプロセスの証拠物件となりはじめる」

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