「いのちの場所」 内山節

本の話

 人間は自分の「いのち」は自分の身体のなかにあると感じる。もしも「いのち」が機械的な機能にすぎないのなら、つまり心臓が動き、血液が流れ、といったことにすぎないのなら、「いのち」は自分の身体とともにある。しかし人にとって「いのち」とは生きている場のなかに成立しているものである。「いのち」を成立させる場があって、はじめて「いのち」は存在することができる。そしてこの場をつくりだしているものが関係である。私たちは他者との関係のなかに、自分の生きる場を、「いのち」が存在する場を成立させている。
だが現代は「いのち」をも固有のもの、それぞれの個体性にもとづくものとする社会を成立させている。それが「いのち」の孤独を生みだし、生の不安と死の恐怖を蔓延させることになった。とするとなぜこのような時代が形成されたのだろうか。

ヨーロッパ近代思想は、キリスト教に基づくヨーロッパという局所的な場所の思想であったものが、科学技術や軍事力などを背景とした植民地支配や資本主義の進展により人類普遍の思想という立場に変わっていった。ここには白人至上主義による人種差別や他宗教の排斥がともなった来た。人間を神に代わる個人とみなすことにより、優れた個人と愚衆という構図が生まれてくる。このことによって、「いのち」にも差別化が生じる。人間があの「いのち」とこの「いのち」の価値を評価し判断することはできるのか。「いのち」にも差別化は、あの人種とこの人種との価値を区別して、あの人種を殲滅してもよいといつなってもおかしくない。

facebookのアプリ対応から、フランスで起きた同時多発テロの犠牲者は、中東で起きたテロの犠牲者よりも、命の価値が重いのかという議論が起きている。毎日のように中東で起きているテロには何も反応しなかったfacebookが、フランスで起きたテロにはユーザーの安否を通知できるサービスを適用したり、顔写真のアイコンをフランス国旗色に変更できる仕様にしたりした。ロンドン在住のある日本人医師は、「日仏両国の世界における立ち位置の共有からみて、日本社会に住むものの多くが、パリのテロの犠牲者をより注目して共感するのは自然なこと」と述べている(ハフィントンポスト日本版記事より)。先進国どうしなのだから当然の反応というところだろうか。

本書である明治の思想家のシンポジウムにおけるエピソードを紹介している。一人のパネリストが思想家は、母親から道端で汗と泥にまみれて働いている人たちを見下してはいけませんよと言われ、生涯この言葉を忘れずに生きたすばらしい方と発言した。この発言を聞いた著者は、何とも嫌な雰囲気を感じたと言う。見下さない自分に価値を見出している思想家の傲慢さ。しかし傲慢でないと思っている自己がいて、その自己にまた価値を見出す一種の選民思想が見られる。

 このような自己と切り離すことのできない他者を、切り離された他者に変えたのが近代的個人でもあった。交わることのない他者へのまなざしが成立し、そのまなざしは自己確認の役割をはたす。それはときに「見下さない」自己であり、同情している自己、気遣っている自己、彼らのために何かをしてあげようとしている自己である。そういう自己が自己の価値を肯定させる。だからそれらは、根本的には、「見下している」自己、無視している自己とまなざしのありようとしては変わらない。
だがここで私たちは自分がある泥沼にはまっていることに気がつく。それは私たちがある種の偽善とともに存在しているということである。この偽善を振り払おうとしても、それから逃れられない自分が存在しているということである。個としての自己の存在をつくりあげている人間にはこのような一面があり、近代社会は私たちにそれを強いているといってよい。
こうして私たちはたえず「他者へのまなざし」に苦悩しなければならなくなった。はたして社会的な弱者への私たちのまなざしは、自己肯定的な自己愛の上に成り立ってはいないだろうか。はたして諸外国の弱者へのまなざしも、同じ問題をはらんではいないだろうか。偽善から完全に逃れることができない以上、「弱者の立場に立って考える」などと言って終わりにしてはいられないのである。

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