「コルチャック先生」 近藤康子

本の話

「トレブリンカ叛乱」の訳者あとがきに昭和90年と書いてあり面白いなと思い、訳者の著作を探したところ新刊で入手出来たのが「コルチャック先生」だけだった。岩波ジュニア新書は「青春の真直中を生きる若い世代」向けとなっている。最近では、岩波新書と差別化が難しいのか月一冊の刊行になっている。「青春の真直中を生きる若い世代」が岩波ジュニア新書をあまり読まなくなったのかもしれないが。

年月が去り、戦争が終わってから、
人びとが、ばったり出会ったとき
おたがいに、素直に
目が見られるのだろうか
「おや、生きていたのですかどんなことをしていたのですか、あのころ。」
と疑いの目で見ることをしないで-

「コルチャック先生」は本名ヘンルィク・ゴールドシュミット、ロシア支配下にあったポーランド王国のワルシャワで同化ユダヤ人の子として生まれた。筆名はヤヌシュ・コルチャック。本書では、筆名のコルチャックを使っている。コルチャックは小児科医・作家で、ユダヤ人孤児のための孤児院を創設した。コルチャックはワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ収容所行きの貨車に子供達と共に載せられ、その後の消息はわからない。トレブリンカ収容所で目撃されという証言もないそうだ。

コルチャックは1942年5月から8月4日までに書かれた「ゲットー日記」と20冊余りの著書をのこした。孤児院では、「子どもの自治」尊重され、その中でも「子どもの裁判」がいちばん重視されていた。「子どもの裁判」とはきまりを守らないものに対する子ども自身による問題解決の方法だった。裁判官は1週間何も罪を犯さなかった子どもの中からくじ引きで5名を選ぶ。コルチャックが起草した法典は1000条もあり、それに基づいて裁判が行われた。孤児院では、子ども指導委員会もあり、子どもの中から自発的に申し出たものが、問題を抱えた子どもの話し相手になったり、交換日記をするなどの心のケアを行った。

コルチャックは子どもの人権を主張し続け、その主張は人びとに受け継がれ、1959年の「子どもの権利宣言」として実現し、それから30年後国連「子どもの権利条約」に結びついた。「条約」化を強く主張したのはポーランドだった。1979年の「国際児童年」は、ユネスコがコルチャック年と決めたコルチャック生誕100周年にあたっていた。コルチャックはトレブリンカ収容所へ行かずにすむいくつかの手段があったらしい。しかしながら彼は子どもたちと行動をともにした。それ以前にもパレスチナへの移住することもできた。パレスチナへの移住は、孤児院の子ども達を連れて行く資金がなく機会を失った。

 君たちの旅立ちにさいして、いまここに別れを告げなければなりません。長い、長い、旅路への。
 この旅には人生という名がつけられています。私たちは、何度も何度も考えてみました。君たちにどのような助言を与えるか、どのように別れを告げるべきか。
 残念ながらその言葉は貧しく、ひ弱です。私たちは君たちに、何も与えることはできません。
 私たちは君たちに、神を与えることはできません。神は君たち一人ひとりが、自分の魂の中に、探し求めるよう努めなければならないからです。
 私たちは君たちに祖国を与えることはできません。祖国は君たち自身の心と考えにより見出すよう努めなければなりません。
 私たちは君たちに、人間の愛というものを与えることはできません。人間の愛は、寛大さなくしてはありえません。許すということは、容易なことではありません。君たちは、自分自身で、寛大であるよう努めなければならないのです。
 しかし、私たちは君たちに“一つ”だけ与えることができます。
 より良き人生への、まことの、正しい人生への-今日ではあえりえない-“あこがれ”を贈ることができます。
 おそらく、その“あこがれ”が君たちを、神へ、祖国へ、愛へと導くでしょう。このことを忘れないように。さようなら。

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