雨の円山公園音楽堂 – 鶴見俊輔さん死去

日誌

思想史や大衆文化論で独自の思想を展開し、反安保、反戦平和など戦後の市民運動で中心的な役割を果たしてきた哲学者で評論家の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが20日午後10時56分、肺炎のため京都市内の病院で死去した。93歳。遺言により葬儀は行わず、22日、近親者で火葬を終えた。

父は、政治家で厚相(現厚生労働相)も務めた祐輔、母方の祖父は、満鉄(南満州鉄道)の初代総裁で外相なども歴任した後藤新平。1922(大正11)年、東京で生まれた。15歳で渡米し、42年、ハーバード大哲学科卒。日米開戦後、米当局にアナキスト(無政府主義者)の容疑をかけられ逮捕されるが、同年に日米交換船で帰国した。戦後の46年、社会学者で姉の和子や経済学者の都留重人(つる・しげと)、政治思想家の丸山眞男らと雑誌「思想の科学」を創刊(休刊は96年)。同時に思想の科学研究会を設立し、「転向」についての共同研究など独創的でユニークな研究を主導した。(毎日新聞webより)

京都に住んでいた頃、円山公園音楽堂で何かの集会が開かれて、その時鶴見さんが講演を行った。初めて「生鶴見」を見て感動した覚えがあった。

「思想の科学」は休刊するまで毎月買って読んでいた。『共同研究「転向」』も苦労しながら読んだ。『鶴見俊輔座談全10巻』では軸がぶれない鶴見さんに感心した。それに比べて複数回対談している吉本隆明はなんだかなあとがっかりした。

『日米交換船』『期待と回想』では、戦争が始まりアメリカに残るか日本へ戻るかという選択で、戦争が終わったとき負けたほうの国に残ろうと交換船に乗ったという。自身を悪者と呼ぶことが出来る人はなかなかいないと思う。

小田実さんが亡くなったとき、「小田実」という人間が信用できたから、ベ平連の活動を手伝ったと言われていた。その他の様々な著作でお世話になった(といっても鶴見さんとは個人的な面識はなかったのだが)。

ご冥福をお祈りいたします。

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