「街場の戦争論」内田樹

本の話

本書は2014年夏にインタビューしたものをまとめたもの。まえがきに、2013年暮れから2014年夏にかけて著者が10冊以上の本をだしたとあり驚いた。最近内田さんの本は、インタビューや対談が多くなっているのは出版過多のためのようだ。札幌駅前の紀伊国屋書店には本書が山のように積んであった。

管理人は内田さんの本を最近読み始めてまだ7冊しか読んでいない。そんな管理人でも本の内容が金太郎飴化していると感じるので、以前からの内田さんの読者はそれ以上なんだろうと思う。アマゾンの「日本戦後史論」のレビューに、内田さんの本を殆ど目を通しているひとが「仕込みのストックを使い果たして、限界に来ていると思う」と書いていた。本書でも半分以上読んだことがある内容だった。「株式会社化する日本」の話はもう書かなくてもよいのでは思ったくらいだった。出版社としては、硬い本は売れないけど、内田さんの評論は売れるのでということなのだろうか。野呂邦暢さんの随筆も晩年に書かれた量が多いが、質は落ちている感じがする。野呂邦暢さんの場合、もう少し仕事を選ばないと忠告されて、執筆依頼が来なくなるのが怖くて、断れないと言っていたそうだ。

管理人は武道の話は初めての話題で面白かった。といっても管理人は内田さんの身体論や武道関係の本は読んだことがないだが。サッカー女子W杯の決勝は、アメリカの完勝だった。あの試合で「勇気をもらった」とか「元気をもらいました」とか言っているひとがいたが本当に試合を見ていたのだろうか。4年前の決勝は本当に凄い試合で感動的だった。今回はアメリカのほうはレベルが上がっていたのにたいして、日本は前回より色々な面で劣っていた気がする。日本のメディアは「達成された数値」や「バックステージ情報」「親子愛・師弟愛」のような感動秘話ばかりを取り上げようとする。技術的な事は二の次で視聴者の反応を重視する。その結果、技術的な事柄を専門的な知見から深く掘り下げた記事を書けるスポーツライターが日本には少なくなってしまった。

 オリンピック報道がその典型です。僕だって、世界的レベルのアスリートがどれほど高度な身体能力を発揮しているのかを専門的見地からていねいに説明されるならテレビも見ますけれど、ただ「日本選手の活躍」を「ライバル物語」とか「遺恨試合」とかいう情緒的なスパイスを絡めて報道されると、ほんとうにうんざりしてしまう。どの国のアスリートであろうと関係ないじゃないですか。「こんなこと」ができる人間がいるんだということに素直に驚嘆したい。日本の金メダルが何個だとかいうことは、はっきり言って僕にはどうでもいいことです。アスリートの国籍がどこであろうと、人種がどうであろうと、宗教がどうであろうと、人間にはここまでのことができるということを見せてもらえれば誰だって感動する。僕が聞きたいのは絶叫や煽りじゃなくて、あるアスリートのパフォーマンスがどのようにすばらしいのかを理解させてくれる技術的な解説なんです。形容詞は要らない。
 スポーツジャーナリズムの退廃は、ジャーナリスト自身が身体と言語の関係についてあまり深く省察していないことに起因しているように僕には思われます。人間の身体は言語的に分節されている。ですから、たった一言で身体のありようががらりと変わることがある。そのような身体に対する言葉の影響力を、「身体についての言語を操る人たち」であるジャーナリスト自身がむしろ過小評価している。ほんとうに言葉が身体的パフォーマンスに強い影響を与えることを自覚していたら、あんな雑な言葉づかいをするはずがない。

「戦争論」なのに身体のはなしのところを引用するのは気が引けるが、戦争とか憲法のはなしは別のエントリーで引用しているので止めた。このまま「月刊内田樹本」が続くようだと、さすがに全ての「内田樹本」を読むのは無理。しばらくは他のひとの本を読もう。

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