「ボブ・ディラン」 湯浅学

本の話

管理人は一度だけボブ・ディランのライヴに行ったことがある。会場はパシフィコ横浜で、ライヴはMCなしで進み1時間位で一旦ボブ・ディランが退場した。1部は新しいアルバムからの曲が多く、会場は盛り上がりに欠けていた。管理人の近くのひとの中には途中で席を立つひとが結構いた。初めて生で聴いたボブ・ディランの歌は、CDで聴いていたボブ・ディランとは何か違っていた。2部で昔の曲が始まると確かにボブ・ディランの歌だった。会場も大盛り上がりだった。

本書は、ボブ・ディランにつきまとうねじれとゆがみを、多少でも正そうと思いで書かれた評伝。ボブ・ディランの曲-”Blowin’In The Wind””Like a Rolling Stone””All Along The Watchtower”-を知っていてもボブ・ディランを熱心聴くひとは日本では少数派だと思う。”The Who”や”The Rolling Stones”も日本ではレコードセールス的には芳しくなかった。”The Who”の曲は日本のミュージシャンでパクっているひとは少なからずいるけれども。

閑話休題。管理人もニール・ヤングやジミヘンのカバーでボブ・ディランを知ったくちで、ボブ・ディランを聴くようになるのは「ラストワルツ」を観てから。本書の著者のように「ボブ・ディランがいなかったらロックはこうなっていなかった。それは確かなことだ」とまでは思わないし、ボブ・ディランの歌を聴かなかったら今の自分の人生は別なものになったとも思わない。ボブ・ディランがいなかったらまた別のロックになっただけだと思う。現在では、ロックという音楽があったという昔話になってしまったきらいがあるが。

管理人にとってボブ・ディランはよくわからいないミュージシャン。とくにキリスト教に改宗以降の宗教的な意味合いの強い歌詞についてはお手上げだ。それはさておき、これからボブ・ディランを聴こうとするひとには、ディスコグラフィとして本書はとても参考になると思う。そしてボブ・ディランの評価は、自分でボブ・ディランを聴いて、自分で判断するしかない。

 あらゆるしがらみを振りほどきながら歌いつづけるということは、どこにいても、ふさわしい場所がない、誰と会ってもどこか違和感がある、ということでもある。しがらみの中に利害がどうしても含まれるのが大衆音楽の宿命だからだ。かつてロックは反社会的・反商業主義的命題を音楽で伝えるものと考えられていたが、それを社会性のある商業製品として成立させるという背反したメディアでもあった。体制的な産業構造の中で反体制的価値感を表現するのが当たり前の音楽だった。ボブはおそらく、早くからその矛盾に気づいていた。だからこそ、体制内反体制であることに無自覚なジャーナリズムを嫌悪し、擬装し攻撃することも辞さなかったのだ。体制から抜け出し自主独立するか、内側にとどまって構造を自分側に変えさせるか。矛盾の克服について、ボブは後者の立場を取りつづけた。その立場のままだったので、なおわかりづらくなってしまったのかもしれない。ロックを声高に叫ばないことが、逆にひどく破壊的な作用をもたらしてしまうこともある。

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