「アウトサイダー・アート」 服部正

本の話

本書は「アウトサイダー・アート入門」の参考文献にあり、入手し易かったため購入した。本書を読んでから「アウトサイダー・アート入門」を読めば良かったと思ったけれども致し方ない。前半がアウトサイダー・アートの歴史的な部分の記述で、後半はアウトサイダー・アートの作品・作者の紹介となっている。

何をもってアウトサイダー・アートというのかは、曖昧なところがあり分かりにくい。アウトサイダー・アートに限らず、現代アートの分類は専門外の人間には分かりにくいけれども。本書では、知的障害や精神病を患うアーティストが多く紹介されている。勿論、知的障害や精神病を患うものが制作した作品が全てアウトサイダー・アートということではない。知的障害者の福祉施設では、芸術に関連する教育が行われているところがある。本書では、その例として京都府亀岡市のみずきの寮が紹介されている。アウトサイダー・アートが正統な芸術教育を受けていないものの作品ということなら、このみずきの寮の絵画教室を通じた作品は微妙なものになる。みずきの作品を、本質的アウトサイダー・アートと呼ぶにはためらいを感じると著者は述べている。

 アウトサイダー・アートは、障害者の芸術活動を指す言葉ではない。だが、アウトサイダー・アートの作り手の中に、障害をもつ人が多いことも事実だ。だからといって、その場を利用して福祉的な理念を語ると、それは美術という制度に対する問題提起ではなくなってしまう。ジャーナリズムの中には、日本ではアウトサイダー・アートのことを「エイブル・アート」と呼ぶと考えている人もいるようだが、それは大変な誤解である。福祉施設主導で提唱された「エイブル・アート」が目指しているのは、障害者を取り巻く社会環境の改革である。その改革が「障害者のアートを通じて」ではあっても、芸術のあり方や、私たちの芸術への接し方の改革を目指すものではない。そこで重要なのは、「障害者の可能性(エイブル)のほうであって、アートそのものではないと見ることもできる。

アウトサイダー・アートの作り手は、「描かずにはいられないから描く」。中年になって突然絵を描き出したり、石に躓いて突然「宮殿」を作り出したり、誰にも見せずに物語とその挿絵を制作し続けたりと傍の者には摩訶不思議な行動に見える。アーティストは、誰かに賞賛されたり、お金を稼ぐために表現していないと思う。しかしながら、誰かに認められなければ作品は存在しないのと同じになり、何らかの報酬がなければ制作が続けられなくなる。受けを狙った作品は、かえって受けが悪いというのは実体験。アウトサイダー・アートの作り手のように表現できれば良いのだろうがなかなか難しい。

 アウトサイダー・アートの作り手たちが見せる表現への飽くなき執着は、時としてインサイドの美術の戦略や戦術を吹き飛ばしてしまうかのように感じられることがある。アウトサイダー・アートの魅力は、ある作者、ある作品ではなく、その作品を作ったその人の、その瞬間の思いの深さにあるような気がする。社会的な評価を求めるわけでもなく、自己の充足のためだけに向けられたナチュラルな表現がもつ重みだ。芸術を神聖視するつもりはない。芸術は、社会システムの中でそれなりの機能を与えられてきたし、経済の循環にも組み込まれてきた。職業的な芸術家は、間接的にせよアートを飯の種にしている。似たようなことは、アウトサイダー・アートの世界にも起こっている。ヴェルフリは作品を売っていたし、富塚純光も絵本を出版した。坂上チユキには契約画廊がる。シュヴァルは、自分の作った宮殿が有名になると、入場料を取って訪問者を案内し、絵葉書を印刷して販売もしていた。
それでもなお、アウトサイダー・アートから芸術の尊さを感じてしまう。作り手たちをそこまで駆り立てるものは何か。しばしば周囲との軋轢を生み、それでも表現しなくてはいられない衝動とは何か。アウトサイダー・アートからは、芸術や表現行為についての答えよりは、疑問や驚きばかりが浮かんでくる。だが、その驚きこそがアウトサイダー・アートなのだろうと思う。アウトサイダー・アートが私たちに与えてくれるもの、それは、驚きをもって世界や人間を見つめる新鮮な心だ。

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