「NARA LIFE」 奈良美智

本の話

本書は2009年から2012年5月の間のブログとTwitterに書かれた文章を加筆・修正してまとめたもの。Twitterのつぶやきが含まれているせいか、非常に短い章も含まれている。管理人は最近Twitterを始めたため、本書に収められている文章はリアルタイムでは読んでいない。今は日々奈良さんのTwitterを読んでいる状態。

奈良さんの作品を初めて観たのは、最初の横浜美術館での個展だったと思う。ちょっと目の離れた少女(というか少年)をモチーフにした絵はインパクトがあった。このような絵もありなんだと目からウロコだった。2012年の個展のときは、入場者の多さに驚いた。

本書では、創作者としての呟きが多い。著者の展覧会が国内外で多くなるにつれ、メディア取材や否定的な批評も多くなっていった。それに対する著者の心の叫びのような文章は心に響く。「構造と力」の著者が、奈良さんの作品を酷評し、奈良さんがその批評が載っている本を焼く箇所は印象に残った。

気になった文章を引用してみる。

 みんなが欲しがる有名なブランドの服よりも、子のためを想いつつ、バーゲンセールの山積みから母が選んだ安物のシャツ。
 そんなものの、いや、そんな母の気持ちがデザインやブランドよりも自分にとっていかに大切かって、今更ながらにわかったのだ。そんなふうに自分の外においては価値観が定まらないような想いをオーディエンスと共有できるような気がして、自分は絵を描いている節がある・・・ことに気がついた。
 人間が感じている普遍的な美的なもの、それと個人が感じる想い入れ、それらがうまい具合にくっついたら、静かに心に訴えかける素晴らしいものができるんだろうけどなぁ。

 流行の中で駆逐されず、そこに残ろうとするならば、いやさらに前向きに進もうとするならば、オーディエンスの顔を見るのではなく-つまりはある種の成功は、オーディエンスの顔色を見ることでも達成できるのだ-自分の奥深くを今再び見なければいけない。それはひとりよがりなものではなく、客観視された自我でもって明確な指向をともなわなければならない。流行に沿い続けるような、オーディエンスへの代償であってはいけないのだ。アートシーンにおいて、オーディエンスが求めるものを形作るのではなく、常に作品自体の志向性がオーディエンスを作っていかなければ進歩はなく、衰退が待っているだけだ。
 いろんなキーワードによる追随や、オーディエンスが望むトレードマークこそが、創造する心に入り込んでくる敵なのだ。ただただ自己と対話し「前夜」の状態の中で、制作していたい。自分が思うところの才能とは、そういう努力を続けることができるかどうかなのだろう。

 もし、僕が作家という位置に立脚しているふうに映るのならば、それは「切実さ」に他ならないのではないかと思う。「切実さ」の意味は、問われても答えられない。答えられないからこそ、その「切実さ」のために、言葉で答えるのではなく手を動かし制作しているのだ。それは、食うためではないことだけは確かだし、楽しむためでもないことも確かだ。なんとくではあるが、生きていることを実感するために、今この世に、この時代に自分がいることを、自分自身で確かめるために・・・確かめるために、いろいろと手を尽くし、その答えを生きているうちに手にしたい、命が果てるまでには必ず手にしたい、というような行動可能な残り時間に対する切実さというのが一番近い気がする。

 そうなんだ。ひとりでやっていくんだ。ひとりで戦うのならば、失敗したっていいんだ。苦しみや楽しみを共有できる人々と一緒に失敗するよりも、自分ひとりで失敗するほうが立ち直りは早く、さらに厳しい道に進むことになるのだ。それでいいのだ。
 そして、オーディエンスの期待は無視していいのだ。彼らを意識して、彼らのために作品を作ったとしても、それが彼らとわかり合えるということにはならない。自分は自分自身とわかり合わなければいけないのだ。その自分対自分の、取っ組み合いの戦い、どんな嫌な奴らの前であっても、誠実に自分を曝け出している戦い、鏡に映る自分との戦いこそが、彼らの眼を覚ませて、彼ら自身を心の奥に歩ませるのだ。

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