「静かな大地」 花崎皋平

本の話

「静かな大地」が雑誌「世界」に連載されたとき、花崎皋平さんが松浦武四郎を取り上げるとはどうしたんだろうと思った記憶がある。当時連載を拾い読みして全て読むことがなかったが。「鰊街道」沿いのまちを歩いていると松浦武四郎に関連する記念碑を見かける。交通機関が発達していないとき、よくこんなところに来たなと思ったことが何度かあった。松浦武四郎はどのように当時の蝦夷地を旅したのかに興味を持ち本書を読んでみた。本書は松浦武四郎の蝦夷地探検を主に書かれている。

松浦武四郎は「北海道」の名付け親として有名である。正確には、明治2年に「道名の義について」で日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の六つを原案としている。そのうちの北加伊道と海北道とを折衷したかたちで「北海道」が正式名称として採用された。北加伊道を案とした理由は、アイヌのひとたちが自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノーあるいはアイノーと呼び合ってきたところだった。同じ年、武四郎は開拓官に任じられ開拓大主典の職につくが、翌年辞職し位階も返上する。この後、71歳で歿するまで東京で過ごし北海道に渡ることがなかった。

松浦武四郎は6度蝦夷地に渡航し、エトロフ、クナシリ、カラフトまで遠征している。探検にはアイヌの案内人と人足を雇い、行く先々のアイヌコタンに泊まり、コタンがないところでは野宿している。最初、管理人は武四郎が案内人なしの自力で歩いていたのかと思っていたがどうも違っていたようだ。行く先の地で一番地理を知悉しているアイヌを案内人としているので、全蝦夷地を踏破できたのだろう。このような探検で知り合ったアイヌの人びととその生活を武四郎は日誌に記録していった。著者が松浦武四郎を取り上げた理由はこのアイヌとの交流にあったと思う。

 私が松浦武四郎からまなぶべき第一のものと考えるのは、真実を追求することをつうじておのれ自身が変っていった、そのあり方である。植民地を支配する民族の一員であり、しかもその政府の官吏になりながら、当時実質的に奴隷化されていた土着先住民族アイヌへの搾取と虐待を知るや、それを排除すべく批判し、直言し、彼らの友となろうした生き方である。その自己変革はなお不徹底であり、日本国家の支配構造への認識において甘かったと、今日の眼で見、いうことはできるが、武四郎を凌駕してそのような道を歩んだ人物を寡聞にして私は知らない。
彼の旅の大部分は、和人としては単身ないし若い役人一人を同伴してのものであって、アイヌの案内人や村人と寝食を共にし、苦楽をわかちあい、悲喜をおなじくしたことが、彼を変えた原因であることにまちがいない。心してまなぶべき点である。
武四郎はまた、歩く人だった。歩きながら考え、歩きながら観察し、歩きながら記録した人だった。したがって、彼の眼の高さは、その地で暮す人びととおなじ高さにあった。自然のうちから感謝して日々の糧を得、子を育て、隣人と談話や歌舞をたのしみ、やがて土に帰る人生を世々送る人びとに、神につうずる心とふるまいを感受することができた人だった。彼自身はとくに宗教を深く信仰する人ではなかったが、他人の苦しみ、悲しみ、喜びに素直に共感できる人であった。そうしたありようも、旅のなかでかたちづくられていったのではあるまいか。

TOP