「既にそこにあるもの」 大竹伸朗

本の話

本書は、1980年から1999年にかけて、雑誌・カタログ・作品集に書かれた文章が収められている。文庫版では、単行本で省かれた短い文章が収録され、各所に木版画が挿入されている。文庫版解説は森山大道。

大竹伸朗さんの本を出版の新しいほうから読み始めたため「既にそこにあるもの」が最後になってしまった。本書ではやはり北海道のときの話がとびきり面白かった。所持金がつきた年末の札幌で高校生にそぼを奢ってもらい、元日に釧路行きの列車に乗って急行券200円を女神に払ってもらい、釧路では電話をかけるための10円玉を探して歩く。このような様々な出会いがあって「絵描き」という職業に近づいたと著者は述べている。この北海道時代の話は、映画か北海道ローカルドラマにしたら面白いと思うけどなあ。

管理人はどちらかというと、批評家が書いたアート関係の本より、アーティスト自身が書いた本のほうが好きだ。批評家の本は難解でよくわからんというのが正直な感想だ。それにたいして、アーティスト自身が書いた本は作品作りに関し色々参考になることが多い。経路積分と同様、作品に至る過程がどんなに時間がかかり、困難であっても結果が全て。

 よく展覧会をやる度に、今回のモチーフはとか、今後の展開はとか質問されるが、正直な話、そんなことに明快に答えられる程、少なくとも僕にとって<今>は単純ではない。きのうが今日になりそして明日になるのは世の常とされているが、それだってだれかがまあ、そういうように漠然と決め、それに従っているだけだ。僕にとっては、この世に生まれそして死ぬまでが長い長い一日といった方が近い気がする。

 もし、自分の考えるアートというものが、日本のアートの状況であるなら僕はさっさと絵を止める。いつの世でもアートの本質は甘くない。甘くないどころか冷酷の極致である。しかし、どんなに努力しようが、雪山登って凍傷にかかって絵を描き続けようが、自然をこよなく愛そうが、少年の目を持っていようが、オリジナリティに届かぬものは相手にされない所が僕には信じられるし、パワーにつながる。本質的な創作の世界は音の分野にしろ美術にしろ、そんな極限に非常な真理のようなものが根底にあり、科学の分野同様、曖昧さの許されない所が納得できる。創造の世界では、言葉で語る目的意識とか主張は危険である。偉大なロックンローラーが政治運動に目ざめたとたんつまらなくなってしまうのに似ている。本質に届く一歩手前では「矛盾」の矛盾しない世界もあるらしく、それは創り手のウィット、ユーモアに大きくかかっている気もする。二十世紀の美しき精神異常者たちは今日も病院という宮殿で、衝動のみに反応して目の前に何かを定着させているに違いない。そんな単純な事実が僕は好きだ。

 僕は、単純に人が「何かつくろう、表現しよう」という気持ちを大切にしたいと思う。いわゆるプロフェッショナルの人々が全く相手にしない代物でも、つくった本人が作品だと主張するものは、やはり作品として尊重する気持ちは失いたくないと思うのだ。要は今、世の中で成り立って仕組の中で創作するのかどうかということであり、「認められない苦々しい思い」とは結局はその仕組の中に組み入れられたい下心の裏返しにしか過ぎないのだろう。
 展覧会場の壁に並んだ、自分が創り出した十八歳から四十三歳までの作品群は、新刊本の文章抜粋パネルに即すということもあり、見事にバラバラであった。これじゃ一貫性がないと批判されてもしょうがないと思った。しかしそう言われても、やはり自分だけは納得のいかない思いが未だ根強く残る。次もつくらねばという衝動は世の中のどんなに筋道だった批判にさらされようと消え去らないのだ。
 会期中、何人かの若者が絵を見てくれとやってきた。僕はそれらの若者に向かって、実は自分自身に向かって、「もっとどんどんつくれ」と伝えた。

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