「日本の反知性主義」 内田樹編

本の話

本書は『街場の憂国会議』に続く、編者が評価する書き手に寄稿を依頼して編んだアンソロジー。寄稿者は、内田樹、赤坂真理、小田嶋隆、白井聡、想田和弘、高橋源一郎、仲野徹、名越康文、平川克美、鷲田清一の各氏。名越康文さんは内田さんとの対談を掲載している。晶文社の「犀の教室」の一冊。本書に寄稿している著者で、管理人が著作を読んだことがあるのは鷲田清一さんのみ。内田さんも本を読むのは初めてで、ブログのほうは読んだことがあった。『街場の憂国会議』のほうは読んでいないが、このようなアンソロジーが続けて出版されるということは日本の現状に対する危機感が強いということだろう。

「反知性主義」という言葉の意味は、管理人には馴染みのないもので、意味も曖昧な感じだった。内田さんによると「あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と述べるのが反知性主義者の基本的マナーということだ。反知性主義者は「いま、ここ、私」しかなく、過剰に論争的であるのは「いま、ここ、目の前にいる相手」を「威圧すること」に熱中し、それにしか興味がないからだ。そのため反知性主義者は簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使をする。反知性主義者には当面しかなく、「いま、ここ」で真実されていることが虚偽なり、彼らが断定した言明の誤りが暴露されることを望まない。

 私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
反知性主義者たちもまたシンプルな法則によって万象を説明し、世界を一望のうちに俯瞰したいと願う知的渇望に駆り立てられている。それがついに反知性主義に堕すのは、彼らがいまの自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」に導くために何をすべきかを問わないからである。「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知らないからである。

twitter上で見られる、「ネットウヨ」(反知性主義者)に対する罵詈雑言のように、反「反知性主義」がいつの間にか反知性主義になってしまうことがある。高橋源一郎さんが言うように「あんたたちは反知性だけど、こっちは知性だよ」というニュアンスが「反知性主義」という言葉に含まれている。相手を簡単に否定することが「反知性主義」なら、反「反知性主義」も反知性主義になってしまう。知性的とはどのようなことかについて鷲田さんは次のように述べている。

 「摩擦」を消すのではなく、「摩擦」に耐え、そのことで「圧制」と「頽廃」のいずれをも回避するためには、煩雑さへの耐性というものが人びとに強く求められます。知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。世界の理解はますます煩雑になってくるのです。わたしたちが生きるこの場、この世界が壊れないためには、煩雑さに耐えることがなにより必要です。そのことがいっそう明確に見えてくるということ、それが知性的ということなのです。世界を理解するうえでこの複雑さの増大に堪えきれる耐性を身につけていることが、知性的ということなのです。ここで大急ぎでつけ加えておけば、知性的であるということは、「教養人」であること、「文化人」であることとは、なんの関係もありません。

反知性主義は知らず知らずのうちに忍び寄ってくる。本人の自覚がなくても、先入観と予断により物事を断定してしまう可能性がある。反知性主義に陥らないために、「目の前の現実を虚心坦懐に観察」し、自らの態度を注意深く振り返る作業が必要である(想田和弘)。

新着記事

TOP