「もし世界の声が聴こえたら」 多木浩二

本の話

本書を読むのにずいぶん時間がかかってしまった。最初の「ざわめく書物」は面白くすうっと読めたが、次章からは演劇やダンスの話になり急ブレーキで停まった感じになってしまった。最終章のベンヤミンの「パサージュ論」に関係する論考はほぼお手上げ状態。同じ著者の写真論がすらすら読めたのは自分に興味あることがらだった為なのだろう。どのテクストにも、読者を世界に開いていく仕掛けが潜んでいると著者はあとがきで述べている。残念ながら管理人にはその仕掛けが見つからなかった感じがする。

「ざわめく書物」で取り上げている本では、「砂の本」、「白鯨」、「マルコポーロの見えない都市」は読んだことがあったので何とか著者の論について行けた。特に「白鯨」論はいままで読んだことがないものだった。「白鯨」といえば、白い抹香鯨に対する復讐に燃え上がったエイハブ船長の狂気の顛末であり、白鯨がこの狂気の悲劇を導く主人公だと言える。小説とはあまり関係ないように思われる「鯨学」を小説中に挿入したメルヴィルが描きたかったのはやはり神話的象徴としての鯨ではないか。

ところが著者は、メルヴィルが描こうとしたのは「見えない想念のもつれをその芯に含んだ『海』をひとつの壮大な風景のように眺めてみたいのだ」という。メルヴィルの構想力は、神話的歴史の現実を描いてみる場として「海」を選んだのである。メルヴィルの「海」は、人間の歴史を浪の襞に刻み込んだ海であって太古に地球を覆った水ではない。メルヴィルが直接「海」の風景を描くのは僅かである。しかし、風景とは眼に見えるものの様相ではない。

 このように海が世界の歴史を展開するほど凄い容量をもちうるのは、実は文学においてであり、縺れ合う言葉の大波がそれを可能にする、と考えてよかろう。画家たちも見えるものを賛嘆しつつ、見えないものに恐れを抱いていたかもしれない。しかし絵とは表面での闘いである。そうした直接視覚的な世界が、ほとんど形而上学的な深さをもつのはごく稀な出来事である。本当の海とは、なんだろうか。メルヴィルの「海」は、海以上のなにものかである。もっと目に見えない世界へ、時間へ、歴史へ、あらゆる物質も人間も比喩的な作用を一斉にはじめるのである。メルヴィルの言葉の嵐のなかに見えてくる海の姿は、決してでたらめに吐き出されている戯言ではない。ここでの私の目論見は、この途方もない小説、あるいはあえて狂人文学と呼んではばかりない言語の怒濤のなかに、われわれは歴史を発見し、世界を発見し、人間の卑小ではあるが、それなくして世界はない生命を発見する。歴史が悲劇として展開していく「海」を、うっかりすると人間の劇の「舞台」と見たくなる誘惑を抑えて、この荒れ狂う言語のすべてがその比喩であるような根源的な場として考えようとしているのである。

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