「肖像写真」 多木浩二

本の話

東川町へ行くまでに写真論を読むのも今回で最後。結局、多木さんと西井さんの著作だけ再読した。本書は、ナダール、ザンダー、アドヴェンの三人の肖像写真家を取り上げ、時代による「写真のまなざし」の変遷を追うことで、記述された歴史とは違う歴史が浮き上がってくる。

ポートレートを撮るカメラマンが「モデルの内面を撮しだした」とか「モデルの内面を撮しだせ」とかよく言うけれども、外面しか撮れない写真に内面が映し出せるのか。そもそも人間の内面とは何かということが曖昧なままに使われている気がする。管理人がある雑誌の編集者にポートレート写真を見てもらったとき、やはり「モデルの内面を撮しださなければだめ」と言われ、モデルの内面を撮した写真として、その編集の方は篠山紀信さんが撮った「山口百恵」を例にしていた。内面が写っているというには、その時の「山口百恵」の内面を理解して、それが写真のここに写っていると指摘できることが必要だと思うがそのようなことは可能だろうか。自然な笑顔や仕草というのはあくまで表面の事象に過ぎない。自称何々という詐欺師にコロッと騙されるのは、内面というより服装、経歴などの外面の物語性を勝手に想像し信用してしまうのではないか。

 彼(アドヴェン)も肖像写真は「パフォーマンス」だと認識するようになった。その効果が自然であるか、不自然であるかの違いがあるだけだ、と。あるいはポーズといってもよい。ポーズとは写真を撮ろうとする意図の究極の現れである。写真家は決して撮影する相手そのものを把握できない。仮面をはぎとり裸形にすることはできないのである。できることはせいぜい表面を正確に、また仮借なく扱うことなのである。表面というのは身振り、意匠、表情などを指していたのである。

ロラン・バルトによれば写真の本質は「かつて=そこに=あった」であり、かならず現実がなければならない。ナダールの肖像写真の魅力は、パリの有名人たちが「かつてナダールのアトリエにいた」ことがあり、ナダールのカメラの前にいて、ナダールの話しかけに答えていたことから生まれる。ナダールのまなざしはブルジョワの空間に閉じている。ザンダーのまなざしはありとあらゆる階層の人間が登場しうる空間に開かれている。ザンダーの時代においては歴史にまだ可能性があった。それに対しアドヴェンのまなざしはいくら折り重ねても厚みをもちえない奇妙な世界にわれわれを誘い込む。われわれはもはや確実なてがかりのない世界にいるか、行こうとしているのである。写真のまなざしは記述できない歴史の無意識に到達しうるし、それは時代によって異なる。

 しかしよく考えると、写真の顔のご本人が、本当のところ何を考えているのかよくわからないのである。ことさら何かを表現しようとはしていない。ぼんやりしているのではない。ただ写真家のほうを眺めているだけのこともあれば、内面で自分の思いを反芻していることもあろう。それは写真家にもよくわからないのである。にもかかわらずどの顔も何かを物語っている。写真家にできることは、内面を推測することでなく、その顔の物語を見ることである。その顔の物語るものは、かならずしもその人の内面ではない。知的に見え、頭がよさそうだと思った人が、実は中身が空っぽだったりする。肖像写真から受け取れる物語は自分自身について何か言おうとしているのではないし、また何かを隠そうとしているのでもない。この物語を写真の形象によって捉え、それ以上立ち入るべきではないというのが、アドヴェンのまなざしの働きである。

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