「小説家 大岡昇平」 菅野昭正

本の話

本書は大岡昇平の小説に焦点をあてた評論。「俘虜記」「野火」から「事件」「ながい旅」そして最後の小説となった「堺港攘夷始末」までの主な小説を取り上げている。評論の対象に「レイテ戦記」も含まれている。「小説家大岡昇平」として「レイテ戦記」を抜きにしては語ることができないのは言うまでも無いことだと思われる。

管理人は「俘虜記」「野火」「レイテ戦記」などを読んだことはあるが、恋愛小説や歴史小説は読んだことがなかった。学生の頃、「レイテ戦記」を読んでいる時、戦場の場面の夢をみた。自分がジャングルを敗走する日本兵で、叢からパンパンという銃の乾いた音が聞こえるが敵は見えず、のどが異様に渇き、もうこれ以上歩けないと思ったところで目が覚めた。あまりにもリアルな夢だったのでいまだに覚えている。「レイテ戦記」は異様なほどの完璧主義で書かれている作品で、何度も加筆訂正が行われている。「レイテ戦記」が書かれた動機どのような理由からだったのだろう。

 大岡昇平は折口信夫の「短歌鎮魂説」にかねてから関心を持っていたようだが、もちろん古代的な魂信仰をそのまま信じていたわけではない。しかし魂の実在を信じ、己が魂と愛する者の魂を鎮める儀式の実効性を素朴に信じた古代人の思惟には、奇跡の生還を遂げた元兵士の心を動かすだけの喚起力が籠っていた。戦争に死を強制されたトラウマによって、永遠に癒やされない傷跡を魂にふかく刻みつけられている状態、そして理性的な意志では鎮められない荒ぶる情念がくすぶりつづけている状態を、大岡昇平は以前からひそかに感知していたのであろう、と私は推察してみたい。
癒やされがたいその魂をゆさぶる情念は、やはり鎮められなければならない。ある時期まで、戦争について書くのは『野火』で終わりにすることを考えていたのにもかかわらず、その予定を実行できなくなったのは-つまり『レイテ戦記』を書くことになった事情は、そのあたりの元兵士の意識の変容と密接に関連しあっている。さらに贅言を付けたすまでもないが、鎮魂の志はひとり大岡昇平という元敗兵の魂ばかりでなく、フィリピンの山野にとどまっている無数の戦死者の鎮められない魂のほうへも、脈々と働きかけなければならない。というより、むしら、そちらへむけての交信が小説家・大岡昇平にとって、文学的主題の核心として浮上することになった経緯は、いましがた述べたとおりである。

やや長いあとがきによると、本書の筆の歩みを督励したのは「俘虜記」の読者感想についての新聞記事とある批評家の文章だった。あの戦争の時代は遠く消え去り改めて考え直すには及ばないという意見が著者には不意打ちの言葉だった。今では東日本大震災の原発事故も喉元過ぎればの感があり、まして第二次世界大戦となると遠く消え去ってしまうのもあたりまえなのかもしれない。評論の最後に著者は次のように述べている。

 あらためて振りかえるに、俘虜となった敗軍の兵士として帰国した直後、戦争について書くところから出発してから、敗戦後の社会の動向を直視しては、戦争の後遺症の癒やしがたい深さを測ったり、高度成長という名の表層の景況にひそむいかがわさしさに辛辣な視線をむけたりしながら、多面的に領域をひろげる熱意を絶やさなかった小説家の、充実した遍歴の道筋がくっきり浮かび上がってくる。「俘虜記」から『堺港攘夷始末』まで、それは長い旅であった。敗戦後の日本文学、あるいは二十世紀後半の日本文学の歴史を飾る最も豊穣で高度の水準を極めた小説、そして将来にわたって読みつがれてゆくにふさわしい小説をいくつも、それぞれの時代のある際立った景観を確実に証言する道標のように建てつづけた長い旅。それが小説家・大岡昇平の意志的に創りあげた生涯であった。

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