「映像の歴史哲学」 多木浩二

本の話

本書は2003年、2004年に札幌大学で行われた集中講義「映像文化論」の内容をもとにしている。講義の部分と編者である今福さんとの対話の部分がある。講義のところは短めで、多木さんと今福さんとの対談のような感じになっている。冒頭に講義とは関係のないテキストが置かれたり、途中編者による解説があったり、編者の長い質問に対して多木さんの答えが1~2行で終わったり、213頁しかない本で10頁以上ある後記も異例で、本としての体裁を整えるのに苦労した様子が窺える。

リーフェンシュタールが監督した映画「オリンピア」についての対談が興味深い。映画「オリンピア」は撮り直しが多い。有名な日米選手による棒高跳びの死闘の映像は、実際の競技中にはライティングができないため翌日に撮り直されている。それはオリンピック競技を記録するというよりも神話的世界を映像化するために壮大な行事が実施された感がある。映像化のために現実を作り出すというドキュメンタリーとしての逆転化が行われている。リーフェンシュタールの映画は現実にあるものを撮ることだけが記録映画ではないということを証明している。

クーベルタンの人種主義と違って、リーフェンシュタールは黒人選手のオーエンスや日本人選手など白人種以外の人々に魅力を見出していた。映画「オリンピア」の最後で、マラソンで金メダルを取った孫基禎と三位になった南昇龍が表彰式で日の丸が掲揚され、君が代が流れるなか俯いたまま顔を上げずにいる映像が続く。それは当時の日本の植民地状況を知らないリーフェンシュタールが東洋的な感情の抑制にエキゾチックな関心があったように見える。なぜ彼らが沈黙し、歓喜にひたるのを拒否しているのかを映像はまったく取り違えて伝えようとしている。スポーツと政治の問題が異常に露出した部分で、映像が深く関わっている。

 先ほども「やらせ」という言葉がでましたが、記録というのは本当の記録ではなくつくられたものである、ということのモデルを完璧につくってしまったという 意味では、そのあとのあらゆる記録映像の原型になってしまったと思います。いったん映像になってしまえば、それはあたかも真実に見えてしまう。ここがやはり映像の恐ろしさです。この映画が、真実に見える映像の構成をつくってしまった。先ほどの西田と大江の棒高跳びの映像を、撮り直したものだとその当時は誰 も知らなかった。真実だと思って見ているのです。ヒトラーの演説も別に撮影し、あとで編集している。むしろそのほうがより真実に見えるのです。新聞なりテ レビなりが「やらせ」をやると、いかにも不正をはたらいたかのごとくジャーナリズムは騒ぎ立てます。しかしあれはナンセンスで、じつはそこにこそ記録とい うものの本質があるのです。

「歴史の天使」から引用する。

 写真が、きわめて月並みなもの、平凡きわまりないものをひたすら撮りつづけることは不思議ではない。クライマクスはどこにもない。ヒロイックな昂りもない。なんの特徴もない光景が、次第に、人間の町に見え、生活がはじまる。そこまではイメージだが、やがてイメージを超え、写真の生まれる場所そのものがあらわれてきて神話的な都市に変貌していくのだ。
写真家は、世界全体を再現しようなどとは考えない。彼は、写真は断片であるかぎり、価値があることを知っている。断片をつなぎ合わせる限界も知っているのである。写真家にはもったいぶった気取りよりも、軽快なフットワークが似つかわしい。あるいはやっくる時代の波を巧みに捉えるサーファーかもしれない。
それが写真家が見つける詩の生まれる場所なのだ。

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