「目玉の体操」 池内紀

本の話

本書は雑誌「一枚の繪」に連載の「絵になる風景」から44篇を選び再構成したエッセイ集。「目玉の体操」という題名からはどんな内容なのかちょっと 想像できなかった。本当に目玉をグルグル回して視力が良くなるというような実用本ではないのは確かだと思った。「絵になる風景」のほうが本書の内容にふさ わしいように思う。著者は目玉の体操について次のように述べている。

 自分では「目玉の体操」と称している。旅行中、あるいは町歩きや散歩の途中、用をすませたあとのブラつき中のこともあるが、ふと目にとまった。「おやっ」と 思って立ち止まり、あらためてながめる。もとより日常的風景であって、人の目にとまらないし、とまらなくてかまわない、うしろから来た人が、さっさと追い 抜いていく。
なぜ目にとまったのか、どうして「おやっ」と思ったのか、目玉が反応したのだから、当の目玉に問うてみる。たいていは「ただなんとなく」だが、ときには 形、色、線ほかにわたり、それなりの理由あってのこともある。意図されたわけではないのにハッとするような造形性を示していたり、実用の用向きを果たして のが、時がたつうちに無用のものとなり、そこからべつの個性をみせていたり、
あるいは正面から見るとごくありきたりだが、ななめから見ると滑稽な図像に変 化したり・・・・。西洋の絵画には「アナモルフォーズ」といって、見る角度によってガラリと像の変わる技法があるが、それが往来の広告などにもひそんでい て、見る位置を移しさえすれば、視覚がいたずらをする。

 いろいろなまちを訪ねて、目玉が反応した 風景を写真に写す。エッセイ一篇に一枚の写真が掲載されている。この写真は「写ルンです」で撮ったものだそうだ。著者によるとウン十万円のカメラで同じ被 写体を撮って比べてほとんど違いがなかったらしい。ウン十万円のカメラで撮った写真は大きく引き伸ばしたプリントでは違いが顕著になると思うけど。「写ル ンです」は確かによく写るフィルム(商品分類上「写ルンです」はカメラではなくフィルム)だった。新品35mm銀塩カメラはほぼ絶滅なのに、「写ルンで す」はしぶとく生き残っている。

「絵になる風景」といっても、あまり有名な場所は本書には出て来ない。管理人が行ったことがある場所も少な かった。青山の写真は、管理人も撮ったことがあるショーウィンドウだった。著者は電車とバスを乗り継いで鄙びた町へ出かける小旅行が好きだと書いている。 車に乗って駆け足で巡る旅では目玉の体操にならない。「おやっ」と思う暇がないのだ。管理人の「鰊街道」の撮影行も似た感じだ。車を使えばもっと早く回れ るのだが、歩かないと見えないものがあると思っている。管理人もこんな風景が好きだ。

 発車5分前、ガラス戸が開いて、制服・制帽の人がでてきた。改札口に直立している。軒に時計、「お知らせ」の看板、フリーキップの案内、痴漢防止の協力呼び かけ。ひなびた駅には誰も来ない。ゆっくりとときが流れる。ひなびた駅にはわただしい現代を黙殺するような時の流れがある。影と日なたがくっきり二分され ていて、線路のかなたが芝居の背景のように見える。初冬の澄んだ大気のなかで、樹木が緑からこげ茶までの色どりの変化をつくり、あいだに道路が白い糸を引 いている。
遠くにポツリと一輛きりの電車が見えた。半円を描くようにして山裾をまわってくる。遠くの稜線がくっきりと空に浮かんでいる。おもちゃの電車のように小さ かったのが、やにわに近づいて、運転席の制帽が見える。たしかにひとけないホームに立ち、そして電車を待っているのに、まわりの風景のいっさいが記憶の中 の映像で、自分が夢の中にいるような気がする。ドアが開いたが誰も降りない。改札の職員はあいかわらず直立している。制帽同士が合図をし合ってドアが閉ま り、ゴトリと車体が動き出した。
ひなびた駅には、過去と現在が微妙な時間の遠近法をつくっている。どこか夢の遠近法と似ていて、それで自分が夢の中にいるような気がしたのだろうか。たし かに感じて、考えるていることがあるのに、それがうまく言葉にならないもどかしさを感じながら、ほんの数人の客にまじって電車にゆられていた。

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