「科学・技術と現代社会」 池内了

本の話

本書は著者が総合研究大学院大学で6年間にわたって行った「科学・技術と現代社会」の講義録を中心にまとめたもの。あとがぎによれば今後科学と社会を考えていく人々への遺言と言って差し支えないと書かれている。以下著者を池内先生と呼ばせてもらう(「宇宙論と神」の記事参照)。

管理人が学生の頃、教養の講義として総合講義「科学技術と社会」(だったと思う)を受講したことがあった。その講義を受け持った講師の一人に池内先生がいた。本書の内容もこの講義に似ているところがあった。当時、核兵器・原発開発、遺伝子組み換え技術、試験管ベビー等に関連して「科学者の社会的責任」についての議論が上がっていた。科学者は研究だけを行っていればよく、その研究の社会に対する影響については責任を負わなくてもよいという従来の考えに対する疑義が持ち上がっていた。
そのため、科学技術と社会との関わりについて目を向ける機運が起っていた。実際は、研究者は自分の嗜好に基づく研究に没頭する傾向があり、「科学者の社会的責任」について考える研究者は少なかった。科学自体に善悪がなくそれを使う人間(政治家)が悪いという「科学性善説」は未だに通用しているように思われる。

最近では、東日本大震災時の原子力発電の専門家の発言やSTAP細胞を巡る一連の騒動等、科学者に対する信用を揺らがす事柄が起っている。専門家が原子炉格納器は絶対壊れませんと言った後に原子炉が爆発しメルトダウンを起こし、「STAP細胞は絶対あります」といった本人が実験を再現できなかった。本書によれば、最近の大学では成果主義にもとづく研究費確保に汲々として、目先の成果ばかり追いかける傾向があるそうだ。鷲田清一さんによれば専門家とは、専門を外れると素人同じという特殊な素人ということ。現代における学問の細分化に伴い、全体を見通す学問(遠い昔なら哲学)の必要性が何度も言われながら、そのような研究はまだ「成果」をあげられていない。そのような科学と社会についての関係について考えるヒントが本書には書かれている。

池内先生が今後進めていこうとしているプロジェクトについて次のように述べている。

 私はかねてから「新しい博物学」の構想を述べてきた。理系の科学知と文系の人間知を結びつけるという意味で、「新しい」タイプの博物学を打ち出し、物語として科学を語ることを目指している。科学は人間が生きていく中で出会う物語のひとつであり、人々が文化として味わい共感することで成り立つものであると思う。
だから、人間が生み出してきた数多くの知の中に科学を見出す試みである「新しい博物学」が、私たちの生き方をより豊かにするのではないだろうか。博物学の伝統が薄い日本ではなかなか想像しづらいが、要するに文学・芸能・歴史・民俗学・宗教などの分野と科学をひとつに合わせて、総体としての人間を捉えようという試みと考えていただきたい。科学知が分断されて人間と切り離されていることの反省から思いついたものだ。
その意味で、科学が専門家や国家に占有されて記号化されてしまい、市民の手から離れて日常の生活と縁遠い状態となっている現状はやはり異様だと思っている。「より多くの人々が文化としての科学に親しむこと、科学者の役割はその手助けをすること」、その目標を時間がかかっても是非とも果たしたいと念願している。

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