詩4篇ー東日本大震災から2年

日誌
「人はじぶんの名を」

2011年3月11日午後、突然、太平洋岸、東北日本を襲った大地震が引き起こした激越な大津波は、海辺の人びとの日々のありようをいっぺんにばらばらにした。
そうして、一度にすべてが失われた時間のなかに、にわかにおどろくべき数の死者たちを置き去りにし、信じがたい数の行方不明の人たちを、思い出も何もなくなった幻の風景のなかに打っちゃったきりにした。
昨日は1万1111人。今日は1万1019人。まだ見つからない人の数だ。それでも毎日、瓦礫の下から見いだされた行方不明の人たちが、一日に百人近く、じぶんの名を取りもどして、やっと一人の人としての死を死んでゆく。
ようやく見いだされた、ずっと不明だった人たちは、悔しさのあまりに、誰もが両の手を堅い拳にして、ぎゅっと握りしめていた。
人はみずからその名を生きる存在なのである。じぶんの名を取りもどすことができないかぎり、人は死ぬことができないのだ。大津波が奪い去った海辺の町々の、行方不明の人たちの数を刻む。毎朝の新聞の数字はただ黙って、そう語りつづけるだろう。昨日は1万1019人。今日は1万808人。
(2011年5月3日に記す、長田弘詩集「詩の樹の下で」)

「魂は」

悲しみは、言葉をうつくしくしない。
悲しいときは、黙って、悲しむ。
言葉にならないものが、いつも胸にある。
嘆きが言葉に意味をもたらすことはない。
純粋さは言葉を信じがたいものにする。
激情はけっして言葉を正しくしない。
恨みつらみは言葉をだめにしてしまう。
ひとが誤るのは、いつまでも言葉を
過信してだ。きれいな言葉は嘘をつく。
この世を醜くするのは、不実な言葉だ。
誰でも、何でもいうことができる。だから、
何をいいうるか、ではない。
何をいいえないか、だ。
銘記する。-
言葉はただそれだけだと思う。
言葉にできない感情は、じっと抱いてゆく。
魂を温めるように。
その姿勢のままに、言葉をたもつ。
じぶんのうちに、じぶんの体温のように。

一人の魂はどんな言葉でつくられているか。
(長田弘詩集「一日の終わりの詩集」)

「ねむりのもりのはなし」

いまはむかし あるところに
あべこべの くにがあったんだ
はれたひは どしゃぶりで
あめのひは からりとはれていた

そらには きのねっこ
つちのなかに ほし
とおくは とってもちかくって
ちかくが とってもとおかった

うつくしいものが みぬくい
みにくいものが うつくしい
わらうときには おこるんだ
おこるときには わらうんだ

みるときは めをつぶる
めをあけても なにもみえない
あたまは じめんにくっつけて
あしで かんがえなくちゃいけない

きのない もりでは
はねをなくした てんしを
てんしをなくした はねが
さがしていた

はなが さけんでいた
ひとは だまっていた
ことばに いみがなかった
いみには ことばがなかった

つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが ただしかった

うそが ほんとのことで
ほんとのことが うそだった
あべこべの くにがあったんだ
いまはむかし あるところに
(「長田弘詩集」)

「カシコイモノヨ、教えてください」

-冒険とは、
一日一日と、日を静かに過ごすことだ。
誰がそう言ったのだ。
プラハのカフカだったと思う。
人はそれぞれの場所にいて、
それぞれに、世に知られない
一人の冒険家のように生きねばならないと。
けれども、一日一日が冒険なら、
人の一生の、途方もない冒険には、
いったいどれだけ、じぶんを支えられる
ことばがあれば、足りるだろう?
夜、覆刻ギュツラフ訳清書を開き、
ヨアンネスノ タヨリ ヨロコビを読む。
北ドイツ生まれの、宣教の人ギュツラフが、
日本人の、三人の遭難漂流民の助けを借りて、
遠くシンガポールで、うつくしい木版で刷った
いちばん古い、日本語で書かれた聖書。
ハジマリニ カシコイモノゴザル
コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。
コノカシコイモノワゴクラク。
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。福音がわたしたちに
もたらすものは、タヨリ ヨロコビである。
今日、ひつようなのは、一日一日の、
静かな冒険のためのことば、祈ることばだ。
ヒトノナカニ イノチアル、
コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。
コノヒカリワ クラサノナカニカガヤク。
だから、カシコイモノヨ、教えて下さい。
どうやって祈るかを、ゴクラクをもたないものに。
(長田弘詩集「世界はうつくしいと」)

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