「私の西洋美術巡礼」 徐京植

本の話

著者の本を最初に読んだのは「汝の目を信じよ-統一ドイツ美術紀行」だった。題名に惹かれて読んでみたのだけれども面白かった。管理人のような専門家ではないものが美術館で作品を鑑賞する場合、どうしても専門家の評価が定まった作品を確認するといった感じになってしまう。自分の目で作品の良し悪しを判断するということはとても難しい。TV等のメディアで取り上げられた展示は長蛇の列となり、日本には美術愛好家がこんなにもいるのかと驚くことがある。専門家の評価も100年後にどうなるかは予想できないけれども。

本書のなかで目をひいたのは、傷痕を示すキリスト像の写真だった。両手の指で傷痕を広げ、それを見つめているキリスト。その傷痕は大きく深い穴となっている。このキリスト像は15世紀前半のもので、フィレンツェのサンタマリア・ヌオヴァ施療院に付属する建物の出入り口にあったそうだ。この像はヨハネ伝に復活したイエスを偽物と疑った十二使徒のひとりトマスの話からきているテーマらしい。キリストが傷痕を広げ、トマスに嘘だと思うならその指を傷痕に入れてみよと。このような彫刻は西洋独特のものかどうかわからないが、大きな傷痕がある仏像というのは管理人は見たことがない。

著者はゴッホの墓を訪ねる。ゴッホの墓の隣には弟テオの墓がある。テオはゴッホの死後発狂し、半年後「極度の疲労と悲嘆」のうちにユトレヒトの病院で死ぬ。テオの妻により、その墓はゴッホの墓の隣に移された。画商としてのテオがゴッホの作品を評価していたとは言い難い。ゴッホの弟への手紙を読むと、金の無心と画材を送れというばかりだ。絵を描くには絵の具や画布、生活するための費用が必要だった。テオにとって兄は「重荷」だったのか。

 現世的な価値観に対する純粋な抵抗を貫くのにも、衣食住などの現世的な裏付けは必要だ。この単純な矛盾が古今の創造者、求道者、革命家を苦しめてやまない。そこで、彼らは自らに鞭を振るうのだが、それは、その鞭の意味を理解する者をも同時に打ち据えずにはおかない。彼らは、自分自身だけでなく他者に対しても、創造者、求道者、革命家であることを不断に求める。創造者、求道者、革命家の純粋性を護るためには、彼らの理解者はその鞭の痛みを耐え忍ばなければならない。
それが「重荷」ということだ。
だから、「悲しみと孤独」は、ゴッホだけではなくテオの側にもあった。それを凄絶な色彩感覚で表現することが兄の役割であり、それを無言で甘受することが弟の役割だった。
テオは、まさにそういう仕方で、兄ゴッホの創造の苦闘に当事者として参画したのである。

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