「失われた近代を求めて 3」 橋本治

本の話

どこまで続けるのだろうかと思っていた「失われた近代を求めて」が明治20年代に逆戻りして完結してしまった。近代日本文学史のような装いだけれども、結局日本小説の文体論という感じだった。「失われた近代を求めて3」で登場する主な作家は、北村透谷、幸田露伴、尾崎紅葉。脇役的に出てくるのが正岡子規と夏目漱石。北村透谷、幸田露伴、尾崎紅葉の著作は現代で必ずしも読まれているというわけではない。明治20年代は、文語体から言文一致体への移行期で、言文一致体の小説はまだ文体がこなれていないものが多い。

本書で久しぶりに幸田露伴の文章を読んだ。高校生のころ幸田露伴の「五重塔」を読んだ記憶がある。当時の「現代国語」には、鴎外の「舞姫」が載っていたりしてこれが現代国語なの?と理系の管理人は思ったりした。「五重塔」は露伴25歳のときの作品で、あらためてあの文章を20代半ばで書くとは凄いと思った。明治の小説家は、若書きのひとが多く、20代前半でデビューしており、夏目漱石は例外的な遅さ。「五重塔」は文体で魅せる小説と本書にあった。幸田露伴の小説と言えば「五重塔」で、それ以外で知られているものは少ない。

 二十五歳の幸田露伴が書き始めた『五重塔』は、文語体ではあるが紛れもない「近代小説」である。近代小説のテクニックが充満していて、「この近代に小説なるものはどう書いたらいいのか?」という模索がまだ行われている頃に、さっさと「完成した近代小説」になってしまっている。『五重塔』の登場は、二葉亭四迷が中絶した『浮雲』を投げ出したそのわずか二年後である。だからと言って、『五重塔』を指して「これこそが近代小説」と言っても困るだろう。ここには江戸時代の人間しか出て来ない。「江戸時代の人間しか出て来なくても、近代小説は成立する」と言っても、「それはそうだけれども-」の答しか返って来ないだろう。
 近代になればいろいろの問題、あるいは問題意識が生まれて、だからこそ「自然主義の時代」もやって来て、幸田露伴は「旧派の大家」になってしまう。幸田露伴は「明治の」という限定の付く「文豪」で、文学史の中では孤立している。その作風を継ぐものがいないから「孤立」で、その後に幸田露伴的小説を書いた人を考えて、私には久生十蘭くらいしか思い浮かばない。

あとがきによると、「失われた近代を求めて」を書くため、筑摩書房「明治文学全集」全100巻を読んだとあった。エッセーの中で著者はよく「本を読まない」と書いているが仕事のために本を読むのは「本を読まない」ことになるのかと訝しんだけれども。本書の最後に「近代」について著者は次のように述べている。

 近代を迎えた日本人が「味気なさ」を抱えた挫折に至るのは、ことの必然のようなものだ。近代を受け入れた日本人は、「近代になればなにかいいことがある」と漠然と信じていた。しかし、近代にやって来られたら、それを受け入れる人間は、「それぞれに近代を担う」という義務を引き受けなければならない。その大前提を忘れて「希望」ばかりを見ていれば、挫折は当然のことして訪れる。
 「近代」を受け入れた日本人が、その大前提を十分に理解していなかったことは、仕方のないことかもしれない。しかし今や、日本人がそれを失念していたということは明らかである。だったらもう一度、「やって来られただけじゃいいことのない近代を“いいことがある”という方向でやり直してみる」ということは必要なんだろうと、私は思う。

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