「水の透視画法」 辺見庸

本の話

辺見庸さんの本を初めて読んだ。きっかけは、「ヘテロトピア通信」に本書が紹介されており、読みたくなった。本書は共同通信が全国加盟新聞社に配信していた連載コラムをまとめたもの。まえがきに代えては書き下ろし原稿。最近読んだ日本人が書いたコラムの中では一番内容が重い様な気がする。石川啄木の「時代閉塞の現状」を読んだときのような読後感だった。

著者は脳出血で右半身不随となる。そのためか、著者自身いうところの「自主トレ」(リハビリ)の散歩乃至は散歩中の出来事についてのコラムが多い。健常者にはわかりにくい歩くということの困難さが文章から滲み出ている。それ以上に困難な状況にある今の世界に対する著者の苛立ち、怒り、断念、諦念がコラムのなかで混沌としている。辺見庸=怒りのイメージがあったので、半ば諦めているような記述があるのは意外な感じがした。地下鉄サリン事件との遭遇や伊藤律と会っていたのことなどは初めて知った。石巻市出身の著者は今回の東日本大震災について2011年3月のコラムで次のように述べている。

 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている。非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

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