「哲学の使い方」 鷲田清一

本の話

日本で哲学といえば、大学で外国語の文献を読み、外国の哲学者かひとつの哲学テーマの研究ということがまず思い浮かぶ。日本語で書かれた哲学関係の書物は、日常語とはかけ離れたジャーゴンに溢れ、読んでもよくわからないことが多い。哲学の翻訳書も難解すぎて、最後まで読み通すに苦労する。ポスト構造主義とかポストモダンとかが流行ったとき、ドゥールズとかデリタとかなぜかフランス現代思想家の著作だけ大量に翻訳された。フランス以外には現代思想が無いような印象だった。このように現在の日本では「哲学」が特殊な学術研究に思われ、それがなくても私たちは生きていける。だが哲学は日常から離れた研究だけではない。

 哲学は、日常生活から離れ、時代の困難からも隔たった場所でなされる知のいとなみではない。むしろ時代の問題こそ、哲学的な相貌をとるようになっている。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。これら現代社会が抱え込んだ諸問題は、もはやかつてのように政治・経済レヴェルだけで対応できることがらではない。また特定の地域や国家に限定して処理しうる問題でもない。これらの問題は小手先の制度改革で解決できるものではなく、環境、生命、病、老い、食、教育、家族、性、障害、民族についてのわたしたちのこれまでの考え方そのもの(philosophy)をその根もとから洗いなおすことを迫るものである。いいかえると、わたしたちの社会と文化のもっとも基本的な形、それがいまあらためて問いただされているということである。

福島第一原発事故の折、原子力工学の専門家がTVに出演し、原子力発電について様々な説明を行っていたが、観ているこちらには何かはっきりしないもどかしさがあった。原子力工学でも分野が分かれ、その分野以外では専門家も非専門家でよくわからないということになり、事故全体を見通せるひとがいなかった。原子力発電所の外部電源が止まったときにどのように対処するのか、原子炉がメルトダウンした場合の対応は、原子力発電所から半径何キロの住民が避難すべきか等々の緊急事項に誰がどのように判断を下すのかがわからず、対策は後手後手になってしまった。学問の細分化が進むなかで、哲学には分岐した知を再びまとめ上げることが期待されていると著者は述べている。知のすべてに気を配るとは専門知と非専門知を繋ぐということでもある。ウィリアム・ジェームスによれば、ある分野の専門家が真のプロフェッショナルでありうるためには、つねに同時に「教養人」でなければならない。

 藪を整然とした都市風景に変えるのではなく、藪を藪としてその重なり、その奥行きのままに描きだすこと。そのためには具体的な細部を点検し、それを捉えなおすために問いを立てること、その問いのなかで既成のフレームワークからは取りこぼされたもの、洩れ落ちたもの、これまで取るに足らない(irrelevant)とされたものに着目し、それら陽になり陰になってきた多型的な知を突き合わせ、相互に翻訳し、摺りあわせ、別の知の秩序にあるもののあいだをいってみれば斜交的に切り結んでゆくなかで、全体を見渡しながらそれらのあいだに思いがけない線を引くこと、事象との、他者とそのようなダイアローグをくり返すこと。方法が先にあるのではなく、ことがらが、それを描く文体をも含めて、それにふさわしい方法を描いてくるということをわすれてはならない。

本書の第3章には哲学カフェが紹介されている。哲学カフェは、ものごとについて同意や、問題の解決ではなく、問いの発見、問いの更新を試みるものとある。ルールは挙手し指名されてから発言する。自分が体験した具体的な事例をあげながらはなす。他の参加者の発言は最後まで聴く、他の人の意見や文章の引証はしない。所属や経歴、居所や嗜好などについて問わない。管理人は哲学カフェに参加したことがないので、どんな雰囲気なのかわからない。もし管理人が哲学カフェに参加しても発言せずに黙って聴講しているだけだと思う。釜ヶ崎の哲学カフェに関連して、日雇いで知り合った労働者ふたりが将棋を指す話が印象的だった。お互いがどのような生活をしているとか過去がどうだったとか関係なく将棋を指すだけ。この話で、失うものがなにもないということが本当の自由ということを思いだした。

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