「ヘテロトピア通信」 上村忠男

本の話

みすず書房の近刊情報で本書を知り、「ヘテロトピア」とは何だろうと思い購入した。著者は「ヘテロトピア」について次のように述べている。

 「ヘテロトピア」の具体的な例としてフーコーが思い描いているのは、共同墓地とか市場とか図書館とか監獄といったような社会施設であって、認識主体ではない。だが、ジャンモハメドが注目するのは、これらの「ヘテロトピア」についてフーコーのあたえている規定、すなわち、それはユートピアとは異なって、それ自体も実在するひとつの場所でありながら、あるひとつの文化の内部に見いだされる他のすべての実在する場所を表象すると同時に異議申し立てをおこない、ときには転倒してしまう「異他なる反場所」であるという規定である。「ヘテロトピア」というのがそのような性格をもったものだとすれば、これはとりもなおさず、今日のポストコロニアル時代における言説空間全体のなかにあってとりわけスペキュラーなタイプの境界知識人が占めている場所でもあろう、とジャンモハメドはとらえるのである。

「ヘテロトピア通信」は月刊「みすず」に連載中のコラムで、書評が多い。著者の専門が思想史ということで、取り上げている書籍の内容は多岐にわたる。管理人に馴染みがったあったのは、“サイードの「財産目録」”、“雑種文化論”、“追悼・多木浩二”、“夢みるカント”くらいだった。「ヘテロトピア通信」以外の書評では、サイード「晩年のスタイル」、岡田温司「肖像のエニグマ」、鈴木道彦「越境の時」を読んだことがあるくらいだった。「チーズとうじ虫」は本棚のどこかにあると思うがまだ読んでいない。どうも歴史の本はすっと読めるものとそうでないものの差が大きい。ネグリはいまのところ読む気があまりしない。知識人についての記述は印象に残った。

 ぼく自身は、ここではむしろサイード的な立場を取りたいと考えます。権力という巨像にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在としての知識人ですね。社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向けることを忘れない知識人です。もしそのような批判的懐疑の眼差しを失ってしまったら、ネグリたちの展望する絶対民主主義の社会はそのまま全体主義社会になってしまわない保証はどこにもないのですから。

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