「私の西洋音楽巡礼」 徐京植

本の話

管理人がマーラーを聴くようになったのは、ラジオでバーンスタイン指揮・ニューヨークフィル演奏の交響曲第二番を聴いてから。それ以来、マーラーを聴き続けたが、バーンスタインが亡くなってからはあまり聴かなくなった。クラシック音楽はマーラー以外はほとんど聴かないし、コンサート会場へもいかない。クラシック音楽のコンサートは何だか敷居が高く、窮屈な感じがするので。そのため、本書に書かれている演奏の評価が妥当なのかどうかよくわからない。

本書は、音楽評論というよりも音楽をダシにして己を語るという感じのエッセイ集。だから管理人でも読み終えることができた。いきなり「音楽は危険だ」と始まる。

 音楽とは、まことに恐ろしいものだ。限りない清純さと高貴さと、底なしの嫉妬や欲望を併せもつもの、そして、こちらの理解を拒み、引きつけては突き放し、翻弄してやまないもの。「どこが、そんなにいいの?」と問われても説明しきれないもどかしいもの、つまり不可解な女性のようなもの、それが音楽である。音楽と深くかかわることは、女性とかかわることと同じで平穏に生きたいと願っている普通の人(つまり私のような人)にとっては危険なことである。危険なのに、縁を切ることができない。

アウシュビッツ収容所で女囚オーケストラに参加し生きのびた女性は、大戦後音楽を聴くことができなくなった。思い切って出かけたコンサートで「蝶々夫人」のアリアを聴いて気絶した。その曲は収容所でよく演奏したものだったからだ。音楽によって癒えることがない傷を負った人間がここにいる。1937年ドイツでは、「ユダヤ人または混血ユダヤ人」が作曲した音楽の出版や演奏をすべて禁止する法令が発布され、マーラーの音楽はナチ政権下では演奏されなくなる。妻のアルマはアメリカへ亡命し、ナチへの抵抗の意味をこめてアムステルダムで「回想記」を出版する。バレンボイムがイスラエルでワーグナーを演奏して話題になったことがあった。ワーグナーの音楽には反ユダヤ主義・ナチ主義が纏いつくにも関わらず、人々を虜にしてしまう魅力がある。

 <第九交響曲>第四楽章の、聴く者を熱中させる英雄的な響きそのもの中に、不吉なものが潜んでいる。このことはベートーヴェンに限らない。例えばバッハの<受難曲>は限りなく崇高であるが、それだけ危険である。ワグナーの音楽から感銘と陶酔を得る方法は、その長大な「無限旋律」の「うねり」に身をゆだねてしまうことだ。だが、その陶酔は危険である。アウシュビッツ以後の音楽は、陶酔と覚醒の間に宙づりにされた居心地の悪さを受け入れることを私たちに求めている。

サンボマスターのライヴをTVで見ていて、ファンのひとたちが“サンボマスターの良さは?”という質問に、「暑苦しいところ」とか「うるさいところ」とか答えていた。「暑苦しい」って褒めているのだと嬉しそうにインタビューに答えているファンの顔から分かったけれども。管理人は未だに”It’s Only Rock ‘N Roll, but I like it” だ。

新着記事

TOP