「さよなら、私の本よ」 大江健三郎

本の話

電車に乗っていて、中吊り広告にでている作家で読んだことのあるひとが全くいないのに愕然としたことがあった。考えてみると大江さんの「憂い顔の童子」以来、日本の小説を読んでいなかった。最近、純文学という言葉を見かけなくなった。自分自身も年齢のせいか小説に以前ほどの興味が無くなってしまった。

本書は「取り替え子(チェンジリング)」、「憂い顔の童子」に続く作品。「憂い顔の童子」で大怪我をした古義人が退院して、恢復に向かうところから始まる。その古義人のところへ、四国の森のなかの暮らしを共有した繁が訪れる。国家の巨大暴力に対抗するために個単位の暴力装置を作る繁と、人類の崩れの「徴候」を書き留める古義人との「おかしな二人組」は静かに立ち向かうと帯にある。

最初、東京の超高層ビルを爆破するテロを計画するが結局上部組織の「ジュネーブ」から計画の実施を却下され、別の計画を探る。古義人は自分の別荘の爆破を提案し、繁はその案に合わせて爆破装置を変更する。実施者の武とタケちゃんは繁の計画を勝手に変え、一日早く爆破を行い、独自に各メディアへ犯行声明を送る。しかし、この爆破でタケちゃんは死んでしまう。このテロ以降、四国の森の家に引きこもった古義人のところにアメリカから入国した繁が訪れる。さよなら、私の本よ!死すべき者の眼のように、/想像した眼もいつか閉じられねばならない。いったん書かれた人物は生き続けるが、本を書いた人間は去ってゆかねばならない。

本書を読み進めて、大爆破テロが起こるのかと期待したが、いつまでたっても計画は進まず、尻すぼみ(アンチクライマックス)になってしまう。この間、最近の大江さんの小説ではよくある、エリオットの詩にまつわる引用があり、いつもの家族の話がありと「私小説家」と呼ばれてもしかたがない内容。面白くなるのは第三部「われわれは静かに動き初めなければならない」から。第三部に至るまで何も起こらず、「ロバンソン小説」はどうなるかと思ってしまった。本書は出版されたとき、著者の「最後の小説」と言われたような気がする。ところがその後「水死」が発表された。やはり長江古義人の四国の森の話。ということでいま管理人は「水死」を読んでいる。本当の大江さんの「最後の小説」まで読み続けることにした。

老人は探検者になるべきだ
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない

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