「森山大道、写真を語る」 森山大道

本の話

もう行くことはないと思った、東川町国際写真フェスティバルにまたぞろ参加することになったので、写真の本を読み返すことに。昨年はキュレーター、写真家、写真評論家の方々4名を相手に疲労困憊したのに、今回は7名に増えて何を話して良いのやら今から思案中。公募展ではやはり「一等賞」を取らないとダメということを痛感したので、今回は何とか最終審査に残りたいのだけれどもどうなることやら。

本書は、森山大道さんのインタビューと対談を集めたもの。対談は荒木経惟さんとのものが一番多い。荒木さんとの対談では、森山さんの3倍くらい?荒木さんが話しているのでどちらの本なのかわからなくなってしまう。デジタルカメラについてのやりとりは、今からみると時代を感じてしまう。今は、デジタルか銀塩かという問い自体が成立しなくなってしまったように感じる。管理人は銀塩と決別してしまったので、「デジタルか銀塩か」ということを考えることもなくなった。白黒ネガフィルムは引っ越しの際全て捨ててしまったので昔には戻れない。

写真は世界の表層を複写するだけということを本書で何度か森山さんは述べている。「内面はどうでもよく、表面だろ写真は」といえるのは凄いこと。某カメラ雑誌の編集のかたに、ポートレートの写真を見てもらったとき、篠山紀信さんが山口百恵を撮ったように内面を撮し出さなければダメと言われて、人間の内面なんて写真に写るのだろうか、観るほうが内面と勝手に思い込んでいるだけなのでは、カワイイ女の子を可愛く撮ってもいいじゃないかと思ったけれども、小心者の管理人は口には出さなかった。人間の内面を撮るということの意味が未だによく分からない。

 ええ、やっぱり徹底的に表面でありたいと思うんですよ。これまでもぼくはいろんな方法や方向で写真をやってきて、やっぽり写真はさらに表面的であらねばならぬ、と自分自身に言いきかせているわけです。これはぼくの写真についての永遠の仮説なんです。内面なんかどうでもいい、表面だろ写真は、って。いっそタイルみたいになるといいなという実感すらあるわけです。ただそうはいってもその思いを裏切ってしまう自分もまだどこかにいて、つい演歌っぽいイメージになっちゃったりね。でも考えてみればその演歌風の写真だってしょせんタイル絵の一枚にすぎないわけでね。つまり、あらゆるイメージを同一の平面上で一緒くたにしたいんですよ、結局。価値のありようとしてすべてイーブンに。

あとがきに森山さんは次のように述べている。

 ぼくはカメラマンだから、話の中心は当然写真についてのことであって、それはそれでいいのだが、しゃべり言葉にしても、書き言葉にしても、言葉ということになると、いずれにせよぼくは本当につらい。これがぼく本来の写真そのものの作業であれば、ぼくはいかようにでも対応できるし、あらゆる意味でいかなる窮地に立たされても、ことの是非はどうあれしのぎきることができる。
でも、言葉による表現と伝達はまさにストレートであり、およそミスティフィケートできないので、まるで新宿駅東口アルタ前の雑踏のなかを白昼素っ裸で歩き回るような心もとなさと恥ずかしさである。ようするに、「言葉は人なり」という言葉の前に毎度震えあがってしまうのだ。

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