「橋本治という立ち止まり方」 橋本治

本の話

本書は「橋本治という考え方」に続く時評的エッセイ集。雑誌『一冊の本』に「行雲流水録」と題して2008年10月号から2012年4月号までの連載をまとめたもの。この時期、リーマンショック、総理大臣が毎年交代し、政権交代、東日本大震災、著者の難病による入院と様々な出来事があった。あとがきによると、本書に政治的な話題が多いのは、著者がマンション管理組合の理事長になり、管理組合が抱えていた裁判に関わったため。

小泉内閣の後、総理大臣が安部・福田・麻生と代わり、民主党政権になっても、鳩山・菅・野田と毎年交代していた。不景気とはいえ経済が破綻したわけでもなく、政情が不安定というわけでもないのに、先進国でこれだけ国のトップが交代するのは日本だけだった。しかし首相が頻繁に交代したからといって、何か困ったという感じはなかった。政権与党が政権与党としての立場を維持し続けるために、総理大臣の顔を代え続ける。重要なのは「党内事情」で「政策」は二の次ということになる。

 もしかしたら、総理大臣となる人の中には「理念」をお持ちの方があるのかもしれないが、それは「総理はそのようにお考えなんでしょう」という私的なものとして位置付けられてしまう。理念は理念だけで宙ぶらりんとなって、それを実現させて行く具体的方策とは結び付かない-鳩山内閣の空中分解の理由はこれだろうとしか考えられないが、そして、だからこそ逆に、「理念なんか持たなくても、具体的な施策は官僚が進めて行くからどうでもいい」にもなる。だからこそ、「政権与党のあり方を守るために、与党代表の組織する内閣の支持率が落ちたら、その顔を代える」ということが当たり前に起る-それで政治家のやることは、「あっちとくっつき、こっちとくっつき、政党内での力を掻き集める」ということにもなってしまうのだろう。日本という国のあり方が安定している間は、それでもよかったんだろう。自民党が「永久与党」のように存在していた昭和の間はそうなっていて、そのやり方が昭和が終わった後の変動の時代になっても、政治の世界では続いていた-続いている。政治家のあり方-その「あり方」を中心に据える政治家の頭の中が「古き佳き昭和」のままだから、「まず現状を認識する」という基本中の基本が、政治家の中に起こりにくいのだろう。

著者は顕微鏡的多発血管炎という難病に罹る。難病情報センターによると次のような病気らしい。

 顕微鏡的多発血管炎は、腎臓、肺、皮膚などの臓器に分布する小型血管(顕微鏡で観察できる太さの細小動・静脈や毛細血管)の血管壁に炎症をおこし、出血したり血栓を形成したりするために、臓器・組織に血流障害や壊死がおこり臓器機能が損なわれる病気です。とくに、腎臓の糸球体と呼ばれる毛細血管および肺の肺胞を取り囲む毛細血管の壊死をともなう血管炎症が特徴的です。

この病気のため、著者は4ヶ月入院する。退院した1ヶ月後に東日本大震災が起る。病気のせいか、東日本大震災についての直接的な記述は少ない。著者は体力があると気力が生まれ、気力があるとその先に知性が宿るというひとで、体力がなくなると大きなことを考えられないそうだ。体力がないことが良かったのか、著者は病気や東日本大震災についても冷静に対応できたようだ。そのようなとき、「中国化する日本」という本が著者に送られてくる。この本を読んで著者が思ったことは、日本は変わらなきゃいけないのだが、本当に変われるのだろうかということだった。

 へんなことを更に承知で言えば、日本人の大多数は民主主義が好きで、だからこそ日本の民主主義をへんてこりんなものにしちゃったんだろうと思う。日本で「民主的」という言葉を使ったら、話がどこに飛んで行くのか分からない。「民主的」を前提にしているはずの人達のやることは、到底「民主的」とは思えない独断的なことなのだが、「その独断を実現させてしまった責任者は誰だ?」ということになると、特定が難しい。責任の所在が明らかにならない無責任体制のことを「民主的」と言っていいのかどうか分からないけれど、少なくとも日本では、「私の独断でそうなったのではない、みんながそう思っているからこのようになった」という無責任体制のことを「民主的」と言う-そうだとしか思えない。どうしてそういうことになるのかを考えると、私にはその答えが一つしか見つからない。日本には独裁者的な強いリーダーがいないから、どうしても「集団指導体制」とか「合議制」というものになる。そしてにもかかわらず、その指導集団の上に「名目上のリーダー」が厳として存在しているから、「その責任はどこにあるのか?」が不明確になる。

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