「定義集」 大江健三郎

本の話

大江健三郎さんの本を読むのはほぼ10年振り。「憂い顔の童子」を読んでからぱったりと大江さんの本を読まなくなってしまった。高校生のころから、大江さんの新作の小説がでるとすぐ読んでいたのだけれども。管理人の場合、大江さんの評論より小説のほうが面白く読めた。本書は2006年から2012年まで朝日新聞に連載されたエッセイを纏めたもの。その間、「沖縄ノート」裁判、東日本大震災があり、小田実、井上ひさし、武満徹、加藤周一の死があった。

「沖縄ノート」裁判の原告の元守備隊長が、「沖縄ノート」を読んだことがないというのを読んで、それこそ「なんだかなあ」という感じがした。「沖縄ノート」を読んだことがないのに、「沖縄ノート」によって著しく名誉を棄損されたと元守備隊長がなぜ訴えたのか管理人には分からない。著者に初めから反感を持っているひとたちが元守備隊長を担ぎ上げたような気がしないでもないが。著者の原発に関する議論でも似たような状況がある。著者の本は難解なものが多く、読むのに苦労する所為もあるかもしれない。

「定義集」という題名であるが、アランの「定義集」のように言葉の定義が順番に並べられているわけではない。著者がこれまで読んできた本や敬愛しているひとの言葉の引用が本書の主体である。

 定義について。私は若い頃の小説に、障害を持ちながら成長してゆく長男のために、世界のありとあらゆるものを定義してやる、と「夢のまた夢」を書いています。それは果たせなかったけれど、いまでも何かにつけて、かれが理解し、かつ笑ってくれそうな物ごとの定義をいろいろ考えている自分に気がつきます。
しかし私が「定義集」の全体で自分の大切な言葉として書き付けたのは、中学生の習慣が残っている、まず本でなり直接になり、敬愛する人たちの言葉として記憶したものの引用が主体でした。いま晩年の自分が出会っている(そして時代のものでもある)大きい危機について、修練してきた小説の言葉で自前の定義を、とおそらく最後の試みを始め、「定義集」を閉じます。

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