「目の人」 近藤耕人

本の話

目の人とは、視覚的人間-視覚的表現に関心を持つ人間という意味らしい。著者の目は写真術で開かれ、自然や社会だけではなく、絵画や映画まで拡がり、小説の中にまで目を探すようになったとあとがきに書いている。著者がスーザン・ソンタグ「写真論」の訳者というのは本の後ろにあるプロフィールを見て気がついた。ソンタグの「写真論」は随分前に読んだのですっかり忘れていた。

本書は3部に分かれており、第1部に写真に関する評論があり、これを読みたいために本書を購入した。2部、3部では「記憶の遠近法」と「地形に住む身体と心の動き」が面白く読めた。他の論文は正直難しくてよくわからないところが多かった。見ていない映画を言葉からイメージするのは困難な作業だと思う。“牛腸茂雄の写真”のなかで著者は次のように述べている。

 写真は視線から始まるが、視線から解き放たれて自由になったとき、自己も他者も超えた空に向かって、それはしかし自己の内にも他者の内にもあって見えないものなのだが、そこに向かって抜け出たとき、初めて自立した作品の世界が現われ出るのであろう。

文学部の学生が小説というか本を読まなくなったという話はよく聞く。大学の学長が文学が何の役に立つのかと放言し、教授の間でも「実学教育と就職予備軍の養成を大学教育の中心におき、文学は現代人の教養から追放されようとしている」のが現状らしい。「映画とともに原作の小説を楽しむことは文学入門の好ましい方法」と著者は述べているが、最近の映画は原作がコミックというのが多いような気がする。

 二十世紀の後半に情報源がTVからパソコンに、個人の会話が固定電話から携帯電話に移り、人はますますプラトンの洞窟ならぬ繭の中に入り込み、井の中の蛙ならぬ繭の中の蚕になりつつある。蚕はやがて変身し、蛹から脱皮して外の世界に飛び立つが、人が飛び立つ世界は相変わらず繭の中の情報世界ということになる。しかし何十億という蚕が半透明の液晶の壁を通して情報を共有するうちに、ビラや新聞よりも遠く国境を越えて瞬時に世界の状況を知るようになる・・・・・・孤独な繭の中が明るい液晶画面になりその小さな居住空間が決まり文句を反復思考する頭脳空間となり、繭頭になっているのも知らずに安住し、繭を出て自分の目で見えないものを見、自分の耳で聞こえないことばを聞き取り、闇の中を手探りで這い進んで確かめることをしない習慣がつき、それができなくなっている。

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