「昼の学校 夜の学校」 森山大道

本の話

8月にある森山大道さんのTALK LIVEの前に、出席するひとは「昼の学校 夜の学校」を読んどくようにと主催者からメールが来たので再読。最初に読んだのが本書が出版された直後だったので6年前だと思う。

本書は写真学校の学生の質問に森山さんが答える形式の講義録。色々な質問が出ていて、8月のイベントで質問することが無いような気がするが。森山さんは学生に向かって、とにかく写真をたくさん撮れと発破を掛けている。

 とにかくまず、何を突破するべきかという突破そのものの実体を自覚するためにも多くの量を写すしかありません。それで、その実体らしきものが見えたら、今度はその突破すべき実体に向けてさらに多量のフィルムを使うしかないのです。下手な鉄砲とかいいますが、スナップ写真はまさにそのとおりで、それ自体恥ずべきことではなく誇るべきことです。よく「継続は力なり」と言うのも、むろんそのとおりなのですが、量もまた最大の力になるわけです。小手先の美学や観念で作られた写真なんて量が一蹴します。

「何を撮っているのですか?」とか「どのようなテーマの作品を撮っていますか?」と聞かれると答えるのに困惑してしまう。目に見えるもの全てを撮影し、テーマは「森羅万象」と答えると格好いいだろうなあと思うが、実際は全く違うけれども。最近だと「東京湾沿岸」を撮影していますと答えることにしている。

 テーマを考えるとテーマに縛られそうで、イヤなんです。テーマで写真を考える人、撮れる人というのは沢山いると思うし、それはそれでいいんです。人それぞれですから。けれどぼくは、街はあらゆる要素の混在する無数のテーマパークだと思っているから、わざわざテーマなんて作るまでもないっていう感じなわけです。何かテーマを作ると自分の写真の可能性が手薄になるような気がしてる。それにぼくはそれほど写真の有効性を信じていないから。

自分にとって本を読むことと写真を撮ることはやめられない所謂「人生の慣習」だと思う。なぜ写真を撮るのかという問いは、なぜ生きるのかという問いと同じで答えようがないと思う。写真を撮るというのは面白いけど、理由はよくわからない。よくわからないから写真を撮っているのかもしれしれない。

 ぼくは欲望という言葉が好きですぐ使うんだけれど、ぼくという個人に根ざすさまざまな欲望そのものがすべて写真に結びついていく。それが撮る動機にもなるし、さらにまた欲望をあおるきっかけにもなっていく。そしてさらにそれが外界の認識や知覚にもつながっていくっていうかぎりなきコードを辿っていくわけです。とにかく、欲望の涯しない循環、それがほかならない写真だと思っています。

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