「明日は昨日の風が吹く」 橋本治

本の話

本書は雑誌「広告批評」に連載されていた「ああでもなくこうでもなく」のインデックス版。単行本の「ああでもなくこうでもなく」は6冊刊行されたが、発行元の出版社が解散してしまい「入手不能」になってしまった。管理人は最後の「ああでもなくこうでもなく」は読んでほかの本を読もうとしたらすでに絶版になっていた。その時、絶版になっている理由がわからなかった。雑誌「広告批評」も廃刊になり、天野祐吉さんも亡くなってしまい、「広告批評」の記憶も遠くなってしまった。

本書を読むきっかけは「おじさんの哲学」で紹介されていたから。「ああでもなくこうでもなく」は絶版だと思っていたので、インデックス版があるのを見逃していた。「おじさんの哲学」で原発事故についての「ああでもなくこうでもなく」が紹介されていて、一瞬福島第一原発事故のことかと思ったけれども、東海村の事故のことだった。多分、福島第一原発事故の話だと言っても納得しただろうと思う。

本書には内田樹さんの解説がついている。その解説には、橋本治さんの書評を受けるひとがいなかったというエピソードが紹介されている。日本の文壇・論壇の方々は「橋本治」が苦手ということらしい。Amazonのレヴューも新書は多けれども、単行本になるとぐっと少なくなる。ちなみに「失われた近代を求めて2」のAmazonのレビューは1件しかない。橋本さんの文章は、まさにああでもなくこうでもなくと何を言いたいのかわかりにくい。内田樹さんの解説によると、言いたいことがあって書いているわけではなく、自分が何を知っているのかを知るために書いており、そのため橋本さんの書くものは本質的に説明であるということらしい。橋本治さんの本を読み続けるひとは、このあたりに魅力を感じているのだと思う。橋本治的説明は文学の話だと面白く感じるが、時評となるとこれは一体何なんだとなる。橋本さん自身も、本書で時評的なことはもう書かないと宣言している。

 データ収集とか情報収集というのは、やろうとしたって自分の中には入って来ない-私はそういう人間なので、「パソコンの必要性」というのがピンと来ない。その「意味」も分からない。そういう人だから、「現代とは無関係のところ」に行ったって別にかまわない。「生きて来た事実」は自分の中にあって、それを活かしてくれないデータは、「データ」に値しない。だから、全然平気で「別の方向」に行っちゃいたい・・・・メチャクチャで体がガタガタになっても(もう年だから)、「世の中のあれこれをピックアップして一冊の本にまとめる」という仕事に比べれば、「今の世の中のありようとは無縁な仕事」の方が精神的に楽らしい。というわけで、もうこういう仕事から足を洗うんです。「ああだ、こうだ」の理論の時代は、私の中ではとうに終わっているんだ。では-。

TOP