「私の昭和史・完結編」 中村稔

本の話

本書は「私の昭和史」「私の昭和史・戦後篇」と続いた昭和史の完結編となるもの。個人的には最初の「私の昭和史」がいちばん面白かった。完結編は、著者の弁護士としての仕事に関する記述が多く、詩人・文学者の側面は少ないように感じる。詩人の昭和史として読むと期待外れになるかもしれない。

旧国鉄と何かあったのかと思うほど、本書では旧国鉄(というか国労)についての言及が多い。スト権ストがあった時代、管理人は高校生で通学に国鉄を利用していなかった。そのせいか、国鉄のストで何か影響があった記憶はない。一回だけ、中間試験が午後からになったことがあった。

著者がいいだももさんと親交が続いていたというのが不思議な感じがした。思想的な立場で言えば全く違うと思った。ソニーの井深・盛田元社長といいだももさんが同じ本のなかで語られるというのは珍しいと思う。管理人がいいださんの文章を初めて読んだのは、雑誌「世界」に掲載された中原中也についてのエッセイだった。著者が述べているように、いいださんが文学から離れてしまったのは残念だ。

本書では、昭和に起こった色々な事件や訴訟について書かれている。サド裁判、ベトナム戦争、順法闘争、ロッキード裁判、、フォトモンタージュ裁判、江川の空白の一日等々。裁判についての著者の記述は、管理人が知らないことが多いせいかとても面白く感じた。連合赤軍について著者は次のように述べている。

 東大紛争において、しだいに孤立化した全共闘が東大解体、東大解体からさらに革命へと彼らの思想を過激化させたのと同様、挫折すればするほど、彼らは社会を標的とし、行動の目標を革命に求めることとなり、革命に向かって思想を純化しようとする。しかし、彼らは社会的にいかなる影響力ももたない極少数派である。だから、彼らは武力闘争しか選択できない。民衆を組織するなどということが現実的に不可能だと理解しているから、極少数派集団の中で、閉鎖された世界で、理想を日々先鋭化する。自らが最先鋭に位置し、もっとも純粋と感じると、同志は不純にみえ、遅れているとみえる。そうした心情から「総括」が行われる。「総括」が行われると集団の中にいる者は孤立を怖れ、「総括」する側に参加する。そうでなければ、自分が「総括」される側になるからである。こうして集団の意志が「総括」に統一され、集団は狂気につき進んで行く。狂気は集団であることによって激化し、歯止めを失う。このような狂気を私たち人間は誰もが持っているのではないか。

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