「1968年」 ノルベルト・フライ

本の話

管理人が憶えている1968年の出来事といえば、ソ連軍のプラハへの侵攻とメキシコ五輪で米国の黒人選手が表彰台で拳を突き上げている姿。日本についての記憶があまりない。地方都市に住んでいると、東京で起こっている出来事もTVの画面でしか見ることがないので、ほとんど外国の出来事と同じ印象になっている。

1968年なぜ学生達がほぼ世界同時的に叛乱を起こしたのか。この問いに本書は、フランス、アメリカ、ドイツ、イギリスから日本、東欧までを分析し答えようとしている。序章は1968年5月のパリから始めている。フランスの学生叛乱は、ほぼ1968年5月で終焉し、6月の選挙ではドゴール派が圧勝する。アメリカでは、黒人の公民権運動とベトナム反戦運動と一体化し、キング牧師とロバート・ケネディ上院議員の暗殺を経て、11月のシカゴ民主党大会で運動は最高潮に達する。しかしながら暴力指向が増大した運動は退潮していき、SDS(Students for a Democratic Society)は自己崩壊していく。日本についての記述は短く、物足りない感じがする。

本書は、当然ながらドイツについての記述がいちばん多い。1968年のドイツについて、日本ではフランスやアメリカほど語られなかったように思われる。最終章「なんだったのか、なにが残ったか」では、ドイツのみに言及している。主眼となったのは、ドイツ連邦共和国の議会外反対派の発展を追うにあたり、その核をなしたのは学生運動であり、これを「68年前後」に世界的な規模で見られた抗議運動との連関で見ようというものであると著者はあとがきで述べている。1968年のドイツでは他の国とは違い親たちの世代の歴史を問うことが始められ、第三帝国についての沈黙を問いかけることによって学生の叛乱が社会と政治を転換させる力となった。

 西側における「68年」とはなんであったのか、反乱とはなんであったのかをあらためて問うてみると、新たな生活形態への欲求のほかに、どの国でも必ず見られた主題が二つあった。大学における状況とベトナムでの戦争である。大学紛争の深さと激しさは国によって違い、また時間的にもかなりずれがあったのだが、東南アジアにおけるアメリカ合衆国の戦争遂行がグローバルな抗議運動の触媒となったことに疑問の余地はない。方法から言葉遣いにいたるまでその現象形態がびっくりするほどそっくりだった。それは人と思想のネットワークの表現でもあったろうが、またテレビのライブ報道によって加速され凝縮され、世界のどこへでも届く映像コミュニケーションの威力でもあった。

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